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『南郡の戦い』
期間:208年(建安13年)冬〜209年(建安14年)
場所:南郡・江陵(湖北省)
曹操軍(曹仁、牛金、李通など) 対 劉備・孫権連合軍(周喩、呂蒙、甘寧、凌統など)
戦力:
劉備・孫権連合軍 数千 対 曹操軍 5,000
結果:『孫権・劉備連合軍』の勝利、『孫権勢力』の《南郡》平定、
『劉備勢力』の《荊州南部》平定。
『赤壁の戦い』に繋がって起こった戦であり、
大々的に、『曹操軍』を打ち破った『孫権軍』はそのまま北上し、
《南郡》へと進軍。『曹操軍』の[曹仁]と対峙する事になりました。
『赤壁の戦い』の直後《南郡》へと進軍します。
『孫権軍』の[甘寧]は《夷陵城》を奪取する事を提案。
[甘寧]は、数百程度の歌いで、《夷陵》を包囲して、
[周喩]は[呂蒙]の策を取り入れ、[凌統]の部隊に守りを任せ、
《夷陵》を完全に確保します。
その後、[曹仁]は[周喩]によって包囲されるものの、数十人程度で包囲網に突入してきた、
[牛金]らによって救出され、また[周喩]にも怪我を負わせています。
交戦開始から実に1年が経ち、《江陵》で負傷を利用して攻撃を仕掛けてきた、
[周喩][劉備]らに包囲され、また[関羽]にも道を塞がれ、
[曹仁]は窮地に陥りますが、[李通]によって救出され、
《江陵》を捨てて彼は撤退するのでした。
[曹操]は『赤壁の戦い』の損害があまりにも大きく、全く決定打が出せず、
一度確保した《荊州》の《南郡》以南を全て失ってしまいます。
[周喩]は《江陵》を占拠して《南郡》を平定。
一方で[劉備]達も、《荊州》南部の四郡を手に入れていますが、
これらの出来事が、後に大きな意味を持っているとは。
また、この戦いから、後の時代で活躍する、[呂蒙]、[甘寧]、[凌統]の、
活躍が目立ってくるのも注目点です。
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