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『荊州・長沙の戦い』
期間:209年(建安14年)
場所:荊州、長沙(現:湖南省長沙市)
韓玄軍(韓玄、黄忠、魏延) 対 劉備軍(関羽など)
戦力:不明 対 不明
結果:『劉備軍』の勝利、[劉備]の《長沙》領土統治
『赤壁の戦い』で勝利を収めた[劉備]は、その対価として、
[孫権]から《荊州》を借地として領地として与えられる事になりました。
しかしながら、それに反発する勢力は多く、
[曹操]が《荊州》を治めた時の“長沙太守”であった[韓玄]との間で戦いが起きます。
この時、[韓玄]の元には、[黄忠]、[魏延]など、
後に『劉備軍』の勇将となる人物がいるのでした。
彼らの君主であった[韓玄]は、正史においては、ただ『劉備軍』の前に降伏したと、
そのような情報しか書かれていませんが、
『三国志演義』ではやはり『蜀』を引き立てるために脚色がされ、
短期な性格であり、恨みを買うような君主とされています。
しかし実際のことはよく分かっていません。
また、この戦いの際、『劉備軍』の[関羽]と、[韓玄]配下であった、
[黄忠]との間で一騎打ちが行われたと言われています。
この時の戦いでのやり取りを見ていた[韓玄]は、[黄忠]と[関羽]が内通していたと、
そのように疑い、ついには[黄忠]を処刑しようとさえするのですが、
彼を救おうと、客将であった[魏延]が、民衆扇動をして反乱を起こし、
[韓玄]を殺害してしまいました。
これにより、[劉備]達は、[関羽]の活躍により、《荊州》の《長沙》を治めた上、
[黄忠][魏延]という勇将達を得ます。
しかしながら、[魏延]は、主君である[韓玄]に反乱を起こし、裏切っているので、
彼を重宝すれば、必ず裏切られると、
[諸葛亮]は[魏延]を斬るように[劉備]に進言するのですが、
[劉備]の取り成しによって、これは許されるのですが―。
これによって、ますます借地であるはずの《荊州》の地に、
その基盤を作っていくことになる[劉備]。
彼は更に《益州》《西蜀》の地を目指します。
そして、[孫権]陣営がそれを、快く思っていなかったのは明らかです。
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