西暦208年 『赤壁の戦い』

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「『曹操軍』の南征」

“南征”に赴いた[曹操]は《荊州》を手に入れ、
[劉備]らを破りました。そして船団によって《長江》を南下し、
《江東》を目指します。

[曹操]から辛くも逃れた[劉備]は、《江東》の[孫権]
と同盟を結ぶべく、[諸葛亮]を使者に立てました。



「降伏か抗戦かの決断」

[孫権]の陣営では、『曹操軍』に対して、降伏するか、抗戦するか、
意見が分かれ、対立が起きていました。
しかしながら、[諸葛亮]の弁舌によって[孫権]は決断します。
そして208年、[孫権]は[周喩]を大都督に任じて、
出陣の用意にかかりました。



「同盟軍の秘策」

『曹操軍』は大船団を率いており、『劉備・孫権軍』の数倍になる、
大兵力を備えていました。
この戦力を覆すためにと、
地の利を生かし、策を用いる計画が立てられます。
[諸葛亮]と[周喩]が示し合った計略は「火」でした。


「苦肉の計」

『孫権軍』の将軍、[黄蓋]は、『曹操軍』の投稿する旨の書状を送りました。
更には、[曹操]にそれを信じこませるため、
『曹操軍』の密使の前で、[周喩]が[黄蓋]に罰棒をくらわせて、
わざとそれを見せるという、“苦肉の計”が実行されました。


「連環の計」

さらに、『劉備軍』の[ホウ統]が、『曹操軍』の陣営に赴いて、
船になれない兵士たちの船を賭けて安定させよと、献策しました。
この“連環の計”によって、舞台は整ったものの、
[周喩]にはまだ心配なことがありました。


「[周喩]の懸念」

季節は冬であり、風は北西、『曹操軍』は『孫権軍』の風上にいました。
火計を仕掛けたならば、味方にも被害が出かねない状況。
気をもんだ[周喩]は病に伏せてしまいますが、
[諸葛亮]が訪れ、“東南の風”を呼ぶと約束をするのです。


「[諸葛亮]、風を呼ぶ」

[諸葛亮]は、《南屏山》に七星壇を築かせ、気筒を行いました。
そして約束の日に、にわかに東南の風が吹き始めます。
風は次第に強く吹き付けるようになり、
時が来たと、『孫権軍』は動き出しました。


「[黄蓋]、炎計を仕掛ける」

投降を偽った[黄蓋]が、数十隻の船を引き連れて、
『曹操軍』の船団へと近づきました。
追い風にのって迫ると、[黄蓋]の合図によって、
火の手を挙がり、東南の風がそれを煽りました。


「『曹操軍』船団、炎上」

[曹操]の陣営が気がついた時にはすでに遅く
繋がれた船は、次々と延焼していきました。
火の粉が長江を覆う仲、意気上がる『孫権軍』が殺到して、
混乱する『曹操軍』を壊滅させていきます。


「天下三分へと…」

[曹操]は敗れ、北へと逃れていきました。
これによって、[曹操]の天下統一は遠のきました。
勝利した[孫権]は自分の地を揺るがぬものとし、
さらに[劉備]は《荊州》の地を奪って、
天下への第一歩を踏み出すのです。


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