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『潼関の戦い』
期間:211年(建安16年)
場所:涼州一帯、潼関(陝西省渭南市潼関県)
曹操軍(曹操、夏侯淵、張コウなど) 対 馬超、韓遂関中軍閥(馬超、韓遂など)
戦力:
不明 対 10万
結果:『曹操軍』の勝利、《涼州》《雍州》を支配。
《涼州》の地は現在で言うところの『モンゴル』にも近く、
『後漢王朝』[霊帝]の時代から『羌族』『氏族』など異民族の反乱が頻発、
[韓遂]などの諸将はこれに台頭して、多くの反乱、内紛で混乱状態にありました。
やがて[韓遂]、[馬騰]が大きな力を持ちます。
しかしながら、[献帝]を[曹操]が保護し、帰順するようになると、
[馬騰]は一族を連れて基準、子である[馬超]が残った軍勢を率いていました。
211年3月ごろ、[曹操]は[夏侯淵]らに《漢中》の[張魯]を討伐するよう命じます。
《漢中》は《西涼》に近いため、[馬超][韓遂]らは、自分達が攻められると、
危機的な感情を抱き、《西涼軍》を形成します。
この軍勢は『曹操軍』に劣る兵力ではあるのもの、『羌族』などが中心となり、
騎馬兵が非常に強かったと言います。
211年7月、[潼関]でのにらみ合いは、[曹操]を追撃してきた[馬超]との戦いで展開。
[曹操]は命からがら[許チョ][張コウ]らに守られて逃げる問有様でした。
しかしながら、[曹操]は伏兵を用いて破り、南へと向かいました。
やがて戦線が膠着したので、[馬超][韓遂][曹操]の三者が会談をしますが、
この時すでに、[曹操]の参謀[賈ク]の考案した“離間の計”によって、
[馬超]と[韓遂]は、お互いを疑い合っていました。
そのため、[曹操]は、《西涼軍》を挟み撃ちに仕掛け、
[馬超]、[韓遂]らは敗走。被害も相当なものであり、
[馬超]と[韓遂]らの反逆の罪で、[馬超]の父[馬騰]や[韓遂]の一族は処断され、
[馬超]は[曹操]を激しく恨むことになります。
(『三国志演義』では、この順序が逆になり、[馬超]が一族の仇として、
[曹操]に反旗を翻したというのがこの戦いとされています)
また、[韓遂]は落ち延びた先で病死しています。
この戦いの後、[馬超]は、《漢中》の[張魯]に降り、
[夏侯淵][張コウ]の軍と睨み合うものの決着はつかず、
[張魯]に見切りをつけた[馬超]はその元を去って、
その頃、《成都》の[劉璋]を攻めていた[劉備]に帰順しつかえるようになります。
そして[馬超]は客将ではありましたが、『劉備軍』『蜀軍』の五虎将軍の一人になるのです。
一方、[曹操]は《西涼》一帯を支配下に治め、
これは『魏』『晋』の時代までずっとそのまま続きます。
やがて“北伐”の舞台にもなりました。
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