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          西暦215年 『合肥の戦い』 
          
          
           
          
          
          ↑前の時代西暦208年 『赤壁の戦い』へ 
          
          
           
          
          
          
 
          
          
           
          
          
          「[劉備]よりの使者」 
          
          
          
          西暦214年『陽平関の戦い』 
          
          
           
          
          
          [曹操]は西へと遠征して[張魯]を破り、 
          
          
          また、《益州》の北に位置をしていた《漢中》をも制すると、 
          
          
          南への征伐の機会を伺っていました。 
          
          
           
          
          
          まだ《益州》を得たばかりの[劉備]は、『曹操軍』の南下を危惧し、 
          
          
          [諸葛亮]と図り、[孫権]に使者を送ります。 
          
          
           
          
          
          
 
          
          
           
          
          
          「[孫権]の北伐」 
          
          
          
          西暦215年『合肥の戦い』 
          
          
          
           
          
          
          [劉備]らは、《荊州》の一部返還を申し出ると共に、 
          
          
          『孫権軍』に《合肥》を攻めるようにもちかけたのでした。 
          
          
          [孫権]はそれが計略であるということは承知の上で、 
          
          
          [曹操]が《漢中》いる隙を突いて《合肥》を攻めようとします。 
          
          
           
          
          
          
 
          
          
           
          
          
          「《長江》を渡った『呉軍』」 
          
          
          
           
          
          
          [孫権]は10万の『呉軍』を率いて《長江》を渡り、 
          
          
          その戦法を、[呂蒙]と[甘寧]に命じて、 
          
          
          自らは、[周泰]と共に中軍を務めました。 
          
          
          『呉軍』は先鋒の二将が活躍します。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「《合肥》での籠城」 
          
          
          
           
          
          
          一方で、合肥を守っていた『曹操軍』は、 
          
          
          [張遼][李典][楽進]の三将軍でした。 
          
          
          救援要請に[張遼]が駆けつけるも間に合わず、 
          
          
          引き渡して城にこもっていました。 
          
          
          そこへ[曹操]からの手箱が届けられます。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「[曹操]の命令」 
          
          
           
          
          
          「[張遼][李典]は出て戦い、[楽進]は城を守れ」 
          
          
          というものが、手箱の中にあった[曹操]の指示でした。 
          
          
          合肥の『魏軍』は総勢7,000名ほどであり、 
          
          
          軍議はもめるもの、[張遼]が出陣を主張して方針が決まりました。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「《合肥》での攻防」 
          
          
           
          
          
          まず、[楽進]が出撃をして、『呉軍』と遭遇すると、わざと逃げ出しました。 
          
          
          『呉軍』は勢いづいてこれを追って、中軍の[孫権]もが馬を進めます。 
          
          
          そこへ[李典]と[張遼]が挟み撃ちにする形で、襲いかかりました。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「[孫権]の敗走」 
          
          
           
          
          
          この状況にたまらず[孫権]は引き返します。 
          
          
          しかし、すでに橋は落とされていました。 
          
          
          慌てる[孫権]に対して味方武将は馬を飛ばすように言います。 
          
          
          そこでいったん馬を下がらせ、一気に飛んで対岸に着地するのです。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「『魏』に[張遼]あり」 
          
          
          
           
          
          
          [孫権]は難を逃れるのですが、『呉軍』は劣勢の『魏軍』に大敗するのでした。 
          
          
          この戦いによって、[張遼]の威名は《江東》にまでとどろきました。 
          
          
          [孫権]は《濡須口》まで戻って、軍勢を立て直します。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          西暦216年「『濡須口の戦い』」 
          
          
          
           
          
          
          この後、[張遼]から援軍の要請を受けた[曹操]は、 
          
          
          《漢中》より駆けつけます。 
          
          
          『呉軍』は[甘寧]の夜襲によって一矢報いるものの、 
          
          
          またも[孫権]が取り囲まれてしまい、 
          
          
          [周泰]の働きでかろうじて、窮地を脱します。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「“魏王”となる[曹操]」 
          
          
           
          
          
          ついに[孫権]は“北伐”する事を諦め、 
          
          
          [曹操]と和睦をしました。 
          
          
           
          
          
          《許都》に戻った[曹操]は“魏王”の座につき、 
          
          
          更にその権力を増していきます。 
          
          
           
          
          
          一方[曹操]の矛先をかわしていた[劉備]は、 
          
          
          虎視眈々と《漢中》を狙っていました。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          ↓次の時代へ 
          
          
          
          
          
           
          
          
           
          
          
          
           
          
          
            
          
          
           
           
          
           
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