| 
           
           
           
          
            
          
          
          西暦212年 『成都の戦い』 
          
          
           
          
          
          ↑前の時代西暦208年 『赤壁の戦い』へ 
          
          
           
          
          
          
 
          
          
           
          
          
          「『潼関の戦い』」 
          
          
          
          西暦211年 
          
          
          
           
          
          
          《赤壁》の戦いの敗戦の後、[曹操]は、南の[孫権]の侵攻に備えていました。 
          
          
          その一方で、後顧の憂いを絶とうと西にもその手を伸ばし、 
          
          
          《西涼》の[馬騰]を誅殺すると、 
          
          
          その息子、[馬超]を《潼関》で打ち破るのでした。 
          
          
           
          
          
          
 
          
          
           
          
          
          「《益州》よりの使者」 
          
          
           
          
          
          [曹操]の侵攻を恐れた《漢中》の[張魯]は、 
          
          
          先んじて《益州》を取ろうと目論みました。 
          
          
          これを聞いた《益州》の[劉璋]は動揺し、配下の[張松]が、 
          
          
          [曹操]への使者となることを申し出るのでした。 
          
          
           
          
          
          
 
          
          
           
          
          
          「[張松]と[曹操]」 
          
          
           
          
          
          《許都》を訪れた[長松]に[曹操]は見下した態度で臨み、 
          
          
          場合によっては益州を[曹操]に、と共に考えていた[張松]でしたが、 
          
          
          思い直してしまいます。 
          
          
          [曹操]の機嫌を損ねた彼は叩き出されてしまいます。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「[張松]、英雄を見込む」 
          
          
           
          
          
          その後、[張松]は[劉備]の元に訪れました。 
          
          
          丁重にもてなされた[張松]は感心をし、 
          
          
          仁義を重んじる[劉備]であるならば、《益州》を任せるのに、 
          
          
          申し分の無いと、《益州》を託したい旨を、 
          
          
          [劉備]に告げるのでした。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「《益州》へと向かう[劉備]」 
          
          
           
          
          
          [張松]は《益州》へと戻り、[劉備]に加勢をして欲しいと、 
          
          
          [劉璋]へと進言をします。[劉璋]はこれに応じ、 
          
          
          [劉備]と再会。[張魯]討伐を引き受けます。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          
          「《益州》の君主」 
          
          
           
          
          
          しかし[劉璋]は優れた君主ではありませんでした。 
          
          
          [張松]達家臣の間でも、新しい君主を迎え入れようと動きがあります。 
          
          
          [劉備]の勢力内でも、天下三分を実現するために、 
          
          
          《益州》を取る。という強い意見が出るのです。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「決断する[劉備]」 
          
          
           
          
          
          [劉備]は、同族である[劉璋]を討っては義理が絶たないと、 
          
          
          [劉備]はこれを拒み続けました。 
          
          
           
          
          
          しかしながら、[劉備]の援助要請を[劉璋]が渋ったことから、 
          
          
          両者に決裂が生まれ、[劉備]は、《成都》を攻めることを決意します。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「[ホウ統]、《洛凰坡》にて」 
          
          
           
          
          
          《成都》攻めを指揮するのは、軍師の[ホウ統]でした。 
          
          
          手始めに《成都》防衛の拠点であるという、《雛城》に軍を勧めますが、 
          
          
          馬を替えたため[劉備]と間違われ、[ホウ統]は落命してしまいます。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「“錦馬超”を迎え、《成都》へ」 
          
          
           
          
          
          《雛城》は、《荊州》から、[諸葛亮]、[張飛]が駆けつけて陥落しました。 
          
          
          《霞萌関》では[張魯]に身を寄せていた[馬超]の猛攻を受けますが、 
          
          
          [諸葛亮]の策によって、逆に[馬超]を迎える事に成功します。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          「“天下三分”の達成」 
          
          
          
          西暦214年 
          
          
           
          
          
          《成都》の包囲に[馬超]も加わり、戦意を失った[劉璋]は降伏。 
          
          
          214年、『蜀』の地は[劉備]の治める地となり、 
          
          
          《益州》を得て、“天下三分”が成り立ちます。 
          
          
           
          
          
           
          
          
          ↓次の時代へ 
          
          
          
           
          
          
           
          
          
          
           
          
          
            
          
          
           
           
          
           
         |