西暦219年〜223年 『定軍山の戦い』『樊城の戦い』『夷陵の
戦い』

↑前の時代西暦215年 『合肥の戦い』



「[劉備]、“漢中王”になる。」
西暦219年

数度に渡った北伐によって、“漢中”を手にした[劉備]は、
219年には“漢中王”と名乗りました。
そして《荊州》を守っていた[関羽]は、これに呼応するかのように、
北上して『魏』の[曹仁]が守る《樊城》を攻めました。



西暦219年「『樊城の戦い』」

[関羽]は水攻めを用いて敵将を討っていき、《樊城》を包囲します。
しかしそのころ、『呉』では[呂蒙]が都督に就き、
《荊州》奪還の機会を狙っていました。
[呂蒙]は無名ながら秀才と言われる[陸遜]を後任とします。



「捕らえられる[関羽]」

[呂蒙]の読み通り、[関羽]は油断をしており、
《荊州》の守りは薄くなっていました。
すかさず[呂蒙]は進軍をして、『魏』と結んで前後から挟み撃ちにします。
凄絶な戦いから[関羽]は《麦城》へと逃れますが―、


「義の将の最期」

[関羽]は[孫権]に降ることを拒み、処刑されてしまいました。
さらに、程なく彼を捕らえた[呂蒙]も病死をしてしまいます。
[関羽]の首は[曹操]に贈れられ、手厚く葬られました。

そしてその[曹操]も、病の床について、ほどなく世を去るのです。


「並び立つ二人の皇帝」
西暦220年 『漢王朝』滅亡、『魏王朝』成立

[曹操]の跡を継いだ[曹丕]は、帝位に就き、『魏』を建国しました。
[劉備]もその翌年に、『漢王朝』の正当な後継者として、
『蜀』の皇帝となります。

[劉備]はまず、[関羽]の仇を取ろうと『呉』の征伐を命じました。


「[張飛]、寝首をかかれる」
西暦221年

[劉備]の怒りは[趙雲]らの諌めも通用しないほどのものでした。
しかし思いの強さは、義理の弟の[張飛]も同様でした。
ですが[張飛]はそれが災いして部下に恨まれて、
出陣を前にして寝首をかかれてしまいます。


「[劉備]、『呉』討伐を起つ」

[劉備]は、二人の義兄弟を失い、決意は変わらず、
[孫権]からは和睦を持ちかけられるも動かず。
仕方なく[孫権]は、『魏』に臣従しました。
[劉備]は自らの兵を率いて出陣し、『蜀』と『呉』の戦いが起こりました。


「『呉』の大都督[陸遜]」

[孫権]は[陸遜]を大都督に任じて[劉備]に備えました。
血気盛んな『劉備軍』は、《長江》にそって、
『呉』の領内の《夷陵》へと陣営を延ばしていきますが、
[陸遜]はなかなか打って出ようとはしませんでした。


西暦223年『夷陵の戦い』
 
遠征をしてきた『蜀軍』は、次第にその疲弊が増してきていました。
やがて機が熟したと判断した[陸遜]は、火攻めを仕掛けて、
一気に攻撃を開始します。

士気が低いところに急襲を受けてしまった『蜀軍』は総崩れとなるのです。


「《白帝城》に没する[劉備]」
  
《白帝城》まで命からがら逃げた[劉備]は、後事を[諸葛亮]に託して、
そのまま没するのでした。

その翌月、嫡子の[劉禅]が《成都》で『蜀漢』を継ぎます。
ここに三国時代の新たな局面が始まります。

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223年 『南中平定』 



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西暦223年 『南中平定』
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