![]()
第七部「危急存亡」 第八十四集
時代背景:223年(『蜀』建興元年・『魏』黄初4年)
〜226年(『蜀』建興4年・『魏』黄初元年・『呉』黄武5年)
『濡須口の戦い』
『蜀』と『呉』の同盟のために、[孫権]の元にやってきた[馬謖]は、
大々的な脅しにも動じずに、彼らが『蜀』に同盟を結び、
共に『魏』に立ち向かう利を言うのです。
その頃、四つの[司馬懿]の策は[諸葛亮]に阻まれ、
『魏』による『蜀』討伐は失敗になっていました。
[曹丕]は所詮大したものはないと、[孫権]配下の者達は安堵しますが、
あくまでも急いで事を進めようとしない[孫権]は、
軍を進めず、防備に当たります。
一方、[司馬懿]の名前が初めて[諸葛亮]に聞かされた頃、
一度も勝つことができない遠征に憤慨していた[曹丕]。
大国になっていた『魏』は、『曹一族』らの指揮する軍の連合が、
上手くいかないままであり、往々としていたのでした。
[曹丕]自らが指揮をとり、裏切った『呉』を討伐すると、
軍を動かそうとします。
『曹一族』の者達が、次々と動こうとする中、動こうとしない[司馬懿]。
この『呉』討伐は、『蜀』と『呉』の連盟をより強固なものとしてしまう、
と言うのでした。
自分の家へと帰ってくる事になった[司馬懿]。
[陸遜]には、とうてい大将軍の[曹真]らは及ばないと判断した彼でしたが、
後の災いを避けたと、尊敬の念を出す[司馬昭]。
結局《濡須口》他の『呉』討伐は失敗し、
[曹丕]は命からがら退却してくるのですが、
彼には肺炎のような持病があるのでした。
ようやくその病を[司馬懿]に明かすことになる[曹丕]。
この病は[曹操]さえも知らなかった、知っていれば、跡継ぎにはしなかったと、
そう明かすのです。
[曹操]が言っていた、[司馬懿]だけが[諸葛亮]と渡り合える、
という言葉を思い起こします。
しかし、軍権を握った[司馬懿]を一体誰が抑えるのかと。
これはまさしく、『三国時代』の最期に関わる話なのです。
[司馬懿]には、[曹丕]からの勅命が出され、ようやく軍勢を率いることを認められますが、
あくまで、『曹一族』と共にであり、彼が大将軍にされたわけではありませんでした。
自分の息子、[曹叡]を託した[曹丕]はほどなくして病で死去し、
[司馬懿]に[曹叡]の補佐を頼むのです。
[曹丕]が死去した後、
その跡を継いだのは[曹叡]でした。
この新しい皇帝に株を売っておきたいらしい[曹真]と[曹休]。
彼らは、[司馬懿]を警戒するように彼へと提言します。
司馬一族は、彼を筆頭して危険であるとまで言いのける始末。
[司馬懿]には何の罪もないと言う[曹叡]でしたが、
辺境の地へと送る事にしてしまいます。
この話に、何故か小躍りをしながら帰ってくる[司馬懿]。
本来ならば激怒するところを、何故か彼は、
辺境に送られる事を喜んでいるのでした。
その理由は、都にとどまっていれば、いずれ才能を見ぬかれ、暗殺される。
しかし辺境に追いやられ、[曹真]と[曹休]が失脚すればいいと、
そこまで見抜いての話なのでした。
一方、『蜀』では[諸葛亮]が、
“出師の表”を[劉禅]へと出し、
行き着く間もない“北伐”を実行しようとします。
自ら軍を率いて『魏』へと攻め入ろうとすることを、[李厳]らは止めようとしますが、
何かに打たれたように軍を動かそうとする[諸葛亮]。
[劉禅]の命令を受け、『三国志』の一大決戦にして、
最大の戦いを挑もうとします。
この一大決戦に対して、[趙雲]を用いない[諸葛亮]。
すでに[馬超]が死去しており、五虎大将軍の最後の彼に、
死んでほしくはないとのことでした。
しかし彼の強い願いに、ようやく[趙雲]を最前線に出そうとするのです。
“第一次北伐”が始まることになりますが、
まさかこれが『三国志』最後まで繋がることになろうとは。
注目の人物
[曹叡 元仲(明帝)]
206年(建安11年)〜239年(景初3年)
吹替:岸尾だいすけ
[曹操]の孫、[曹丕]の長男と、皇帝の座を継ぐには家系からして問題ない人物ですが、
[曹丕]が早死してしまったので、かなり若くして皇帝になりました。
悪評というほどはありませんが、
最も『魏』の皇帝で在位が長かった人物でもあります。
![]() |