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第六部「天下三分」第八十三集
時代背景:223年(『蜀』建興元年)(『魏』黄初4年)
再び『蜀』と『呉』の連盟に、安堵する[諸葛亮]と[諸葛瑾]。
しかし刻一刻と[劉備]の寿命は終わりを告げようとしていました。
[劉備]の臨終にやってきた[諸葛亮]。
臨終に際しても、[諸葛亮]の才能を讃え、
まだ若く、経験も浅い[劉禅]を支えるように言います。
[劉備]曰く、[劉禅]は賢いものの弱く、大事は託せないといいます。
つまり皇帝は[諸葛亮]に継がせるように言い出しますが、
大業を成せないと分かる時があれば、[諸葛亮]が継ぐようにと言うのです。
[劉禅]が[諸葛亮]を慕っている事を理解した[劉備]。
これで、安心して最期を迎えられると判断します。
以前、[劉禅]に覚えるように言った詩、
それをある程度までは覚えられたものの、言えなかった彼でしたが、
その時、[劉備]に最期がやってくるのでした―。
彼の最期を看取ったのは、息子の[劉禅]でした。
『蜀漢』が[劉禅]の時代となった後、
(これは『蜀』のほぼすべての時代なのですが)
[孫権]の元へと返り、同盟を結ぶ決意をした[諸葛瑾]。
すでに[孫尚香]は死去したらしく、この時、[劉備]が死去したことを[孫権]は知ります。
([孫尚香]がこの頃に死去したのは創作で、もっと長生きをしていたと思いますが)
相変わらず、『魏』『呉』『蜀』が鼎立した状況ですが、
[曹操][劉備]の世代がいなくなり、
その息子達の時代になった今、[曹丕][劉禅]に比べ、
一番才能があるという[孫権]。
また、知らせは《洛陽》の[曹丕]の元にも向かいます。
彼がやって来たのは[司馬懿]の家。
あまりの嬉しさに来てしまったという[曹丕]が言うのは、
[劉備]が死んだことを知ったからでした。
今、『蜀』も『呉』も兵力を大きく失っており、
攻めるなら今だったのでした。
[曹丕]に[司馬懿]は、すでに軍略を考えていると言うのでした。
それが、“[司馬懿]による五路侵攻”の戦なのでした。
《西平関》を始めとし、『蜀』の武将を引き入れる策をするのです。
優れた人物を大将軍に任じ、《陽平関》を攻めるよう言う[司馬懿]。
何故か、肝心の大将軍に任じる人物の名は、口を噤む[司馬懿]。
それは自分自身がその座につくところ。
かつての[曹操]の言葉を思い出す[曹丕]は、
“[司馬懿]に警戒を怠るな”の言葉から、
[司馬懿]を大将軍には任じないのでした。
更に彼の次男の[司馬昭]を宮中に入るように言うのです。
一方で、まだ皇帝に就任したばかりの若い[劉禅]は、
次々と起こる事態に動揺を隠せないままなのでした。
何故か[諸葛亮]が朝廷の議に現れず困り果ててしまうのです。
[諸葛亮]の家にまでやってきた[劉禅]は、
彼に撃退する手段を問うのですが、
まずは[劉禅]を落ち着かせた[諸葛亮]は、
《西平関》には[馬超]を、《南中》の[孟獲]には[魏延]を、
《陽平関》には[趙雲]を当たらせ、
[司馬懿]の五路の攻撃は、すでに防御策を得ていたのでした。
しかし、残ったのは他の道でした。
他にいる敵、『呉』の[孫権]。
和睦を結ぶために、[諸葛亮]は弟子の[馬謖]を遣わせると言うのです。
『魏』か『蜀』か、どちらにつくべきか迷う[孫権]。
表向きは『蜀』討伐を受けたふりをする。という[張昭]の案を受ける[孫権]。
[諸葛亮]が使者を寄越したのは、
『魏』の出兵を見ぬいた策があると判断する[孫権]。
わざと大々的な脅しをかけ、遣いの[馬謖]の、そして[諸葛亮]の、
意志を試そうとする[張昭]―。果たして。
このエピソードの注目点
「時勢を見抜く[諸葛亮][司馬懿]達」
。
注目の人物
[劉禅 公嗣]
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吹替:
何だか、三国時代最低の皇帝みたいに言われていますが、
[劉禅]に、悪事を働いたという記述が全くないので、
勝手な悪評が広まっているとしかいいようがありません。
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