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第四部「荊州争奪」第五十一集
時代背景:210年(建安14年)
《荊州・長沙》を収める事に成功した[劉備]らですが、
[劉g]が死去し、その《荊州》を[孫権]らに返さなければならない状況になりました。
[孫権]は彼らの行動に不満を覚え、これを取り戻す決意をしました。
すでに[周瑜]も、《荊州》を取り戻すための戦に踏み切ろうとまで考えており、
これを[魯粛]が止めようと動きます。
[劉備]と戦をしてはならない、と、
[諸葛亮]は[曹操]がいる限り、[孫権]らは同盟を破らないと、
そのように[周瑜]は判断しており、
いつでもその[諸葛亮]の隙を突いて、《荊州》に攻め入るつもりでした。
しかしそれは囮の軍であり、[諸葛亮]を脅すつもりでもあったのです。
《荊州》を返さないのであれば、戦も行うと。
[劉g]の死に喪に服した[魯粛]は、
すぐにでも《荊州》を取り戻す交渉に入ります。
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葬儀の日だからこそ、[劉g]の霊前であるからこそ嘘はつけない、
という[魯粛]に対して、[諸葛亮]は《荊州》は、
朝廷のものであり[劉備]が治めるべきだと言い出します。
[魯粛]ならば『漢室』と天守を救うことができる話ができるかと、
[諸葛亮]は饒舌に言いくるめてしまいますが、
[孫権]の勢力がいたからこそ、[曹操]に『赤壁の戦い』で勝つことができた、
その恩義は忘れたのかと、
そして約束は確かにしたと。[周瑜]は絶対に許さないだろうと、
さらには主君である[孫権]もそれは抑えられないと脅しにも入りました。
この状況下に、[諸葛亮]は、あくまでこの《荊州》を借地とし、
《巴蜀》の地を[劉備]が治めたら即時に《荊州》を還すと言い、
それの約定をさせます。
戦は避ける事が出来た[諸葛亮]ですが、両者の関係はまた悪化したのでした。
まるで進展が無かったと思う[周瑜]ですが、
[魯粛]にしては、あくまで『呉』のものであると認めさせた、
という点では進展したと言うのです。
そんな頃、今では[劉備]の唯一の妻であった[甘夫人]が死去。
[周瑜]は[孫権]の妹である、[孫小妹](孫尚香)との縁談を作り、
[劉備]だけおびき寄せるという作戦に出るのです。
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そして縁談の話が[劉備]に持ちかけられ、
両家の縁組が実現すれば、[曹操]にも脅威になると、
使者の[呂範]は言い、[劉備]も承諾するのですが―。
このエピソードの注目点
「《荊州》争奪の情勢の悪化」
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《荊州》は当時の中国大陸の中心地的なもの。
それを奪い合うことが行われるのは必然ではあります。
元々は『漢王朝』の領土であり、名目上それは変わっていない事になっていますが、
誰が支配をするのか。それは非常に重要な事になります。
[劉備]としては、自分が王朝復興のために、
足がかりとして無くてはならないところであり、
[孫権]としては、[劉備]に貸し与えたという土地であるという、
非常に重要な役割を果たすことになる土地なのです。
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