![]() ![]()
第四部「荊州争奪」第五十集
時代背景:209年(建安13年)『荊州・長沙の戦い』
《荊州》の地を次々と自分の勢力下に収める[劉備]。
次に彼らが目指したのは、《長沙》であり、そこには老齢ながら猛将と言われる、
[黄忠]が配下にいるという地でした。
![]()
[関羽]の前に現れたのは、《長沙》の太守である[韓玄]と、[黄忠]でした。
[関羽]と一騎打ちで対決することになる[黄忠]。
ご老体とは戦えないという[関羽]ですが、相手の実力を認めたのか、
一騎打ちで戦い、互角の勝負をしてみせます。
しかし一騎打ちでは決着がつかないと判断した[関羽]は、
[黄忠]を罠にかけて陥れるのですが、実力を見せつけただけで、
討ち取るまではしないのです。
[韓玄]は、家臣の忠言で、実は[黄忠]が[関羽]と内通しているのではないか、
と疑うようになりました。
翌日、再び[関羽]と一騎打ちをすることになる[黄忠]。
しかし百発百中のはずの矢をわざとはずした[黄忠]は、
手を抜き[関羽]に従っているのではないかと疑った[韓玄]に、
斬首を申し付けられるのです。
いざ処刑という段階で現れたのが[魏延]で、彼は堂々と[黄忠]を助け、
[韓玄]が太守など民のためにならないと言い放ち、
彼は謀反ともなる蜂起をして、自ら[韓玄]を斬り、
[劉備]に降伏をするように言うのです。
しかしこれは、主を裏切って領地をさらすという行為であり、
[黄忠]には気に入られないのです。
[劉備]らが入城してきたものの、それを気に入らない[黄忠]は、
病を理由に顔を見せることはせず。
自ら[黄忠]の元へと顔を見せるのです。
最初は[劉備]のことを気に入らなかった[黄忠]ですが、
茶を飲みながら話し合う内に、
元主君の[韓玄]を手厚く葬ってくれるというので、彼も[劉備]に協力することに。
一方で謀反を起こした[魏延]は、
主君を裏切ったということに[諸葛亮]の反感を遭い、斬るように言われますが、
[劉備]は、他の将兵が恐怖をするからと[魏延]を許します。
ここでの話は、本当に後々に関わってくる事ですね。
その頃、[劉備]の同族である[劉g]が危篤状態に陥り、
[劉備]の到着を待たずして死去。
[劉g]の死に悲しむ[劉備]ですが、
それは同時に《荊州》の主がいなくなったことを意味していました。
[周瑜]らが《荊州》を取り戻しに来る事は明らかであり、
『呉』にそこを明け渡さなければならないと[劉備]は言います。
[関羽]と[張飛]は[周瑜]など敵ではないと言い張るものの、
筋が通らない事、[諸葛亮]曰く良くて共倒れになるだろうと判断されます。
[劉g]の死は隠さず、[周瑜]らに伝え、様子を伺うという判断になります。
![]()
その頃、『合肥の戦い』に大敗したと語られる[孫権]。
(実際のところこの話は、2年後の事ですが。『合肥の戦い』は何度もあったので)
[孫権]は[劉g]が死去したことを[魯粛]から知らされ、
自分たちに風が向いてきた事を感じます。
このエピソードの注目点
「[黄忠]と[魏延]の『劉備軍』への降伏」
![]()
破竹とばかりの勢いで、《荊州》の各地を攻め取っていく『劉備軍』。
しかしこれは、相手にとっては侵略行為とも、
取られてもしかたがないことです。
悪政をしいていた[韓玄]を滅ぼし、善政を敷くようにした、
という[劉備]ですが、実際は[韓玄]は悪事をしていたという話はあるとかないとか。
また、この地には後の『劉備軍』で重要な役割を果たす、
[黄忠][魏延]といった武将達がおり、
《荊州》各所を攻め落としていく[劉備]達にとっても、
重要な出会いが待っているのでした。
注目の人物
![]()
[黄忠 漢升]
吹替:麦人
?年〜220年(建安25年)
後の『蜀』の五虎将軍になる将軍の一人。
この頃はまだ、《荊州》の将軍ではありましたが、
老齢で盛ん将軍として、名をよく知られていました。
彼が五虎大将と慣れたのは、『曹操軍』の第二の実力者であった[夏侯淵]を討ち取った、
という功績が大きいらしいのです。
かなり年齢を重ねていたかどうかは、不明瞭なところがありますが、
『蜀』において武勇ある活躍をした人物であることは確かなようです。
![]() |