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第四部「荊州争奪」第四十九集
時代背景:209年(建安13年)〜210年(建安14年)
《荊州・零陵》を手中に収めようとする[劉備]ら。
捕らえられた後、策に使うと解放された[刑道栄]は、
太守である[劉度]にのうのうと、自分がわざと計略にはまったというのです。
これを機に、[劉備]らを計略にかけて始末しようと考えるのでした。
しかし、[劉度]の息子である、[劉賢]は彼を疑い始めます。
[劉度]は、[劉備]らを始末するための計略で、城門を開かせますが、
見え透いた罠をわざと利用した『劉備軍』は、
敵の攻撃にわざと撤退をしたふりをして、『劉度軍』を追撃させ、
追いかけてきたのは、偽物の[劉備]。
そこに[張飛]らが攻撃を仕掛け、[刑道栄]と[劉賢]は捕らえられるのです。
自分の命のようにかわいがっている、[劉度]の息子の[劉賢]を捕らえたなら、
《零陵》は取ったも同然と[諸葛亮]は判断し、結局その通りになるのでした。
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[劉度]に対して恭しく振る舞った[劉備]は、手厚く迎えられる事となり、
《零陵》は[劉度]に引き続き太守を務めさせると言うのです。
それでも、[劉備]は、《荊州》の主であるという事を揺るがしません。
次なる目標は《桂陽》と定めた[劉備]。
この《桂陽》を攻めるのは[趙雲]に決まります。
《桂陽》まで軍を率いてやってきた[趙雲]は、あくまでも[曹操]に従うという、
[陳応]と一騎打ちで対決になります。
[趙雲]の武勇に、様々な武器で挑もうとする[陳応]。
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おもりを吊るした武器である“双錘”まで持ちだした彼は、
[趙雲]に面白い奴と言われますが、残念な事にこれが威嚇程度にしかなりません。
太守である[趙範]の元に返された[陳応]は、
太刀打ちできず、[劉備]には仁の心があると言い、降伏を薦めるのですが、
[趙範]は頑として動こうとしません。
[趙範]は、このまま手をこまねいて見ているしかないのかと怒り心頭ですが、
彼は[趙雲]に投降したとして城へと案内して、
酒を呑ませて、同じ姓で、同郷の人物であると懐柔しようとします。
[趙範]は、[趙雲]に自分の死去した兄の、
未亡人の嫁を娶ってくれないかと言い出します。
そうすれば、自分の《許都》の屋敷を差し上げるというのですが、
それは[曹操]に降らせようとする罠なのでした。
これを見ぬいた[趙雲]は、自分を暗殺しようと張り込んでいた兵士達を、
武器一つ持たぬ身で戦い抜き、屋敷を脱出したのでした。
しかし《桂陽》の出口の門で立ちふさがったのが、[陳応]。
と思いきや、彼は[趙雲]を敬服してか彼を連れて共に脱出していたのです。
もうこれ以上は持ちこたえられないと判断した、[趙範]は、
印綬だけを持ってこの地を逃げ出そうとするのですが、
もはや《桂陽》は[趙雲]の軍の手中に治められ、逃げ場は無いのでした。
こうして《桂陽》も[劉備]の元に収まるのです。
そして、猛将[黄忠]がいるという《荊州・長沙》へは[関羽]が向かう事に。
[関羽]は老いぼれごとき五百の軍で平気と自信満々に言ってしまい、
六千の軍にせよという[諸葛亮]に反発をします。
このエピソードの注目点
“《荊州》を次々と支配下に治める『劉備軍』”
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このエピソードで描かれるのは、『劉備軍』の、
[趙雲]らによる快進撃にあります。
次々と《荊州》の土地を取っていき、そこにあくまでも支配ではなく、
人徳による道をしくのが彼らの目的。
このエピソードでは[趙雲]によって《桂陽》を取られるというものが、
彼と、彼を騙そうとした[趙範]との間柄として描かれました。
また、様々な武器を使いこなして[趙雲]と対決をする、
[陳応]も、噛ませとしての役ではありますが、
実は[趙雲]に協力してくれる味方としても登場してくれます。
注目の人物
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[趙範]
吹替:星卓哉
西暦?年〜?年
《荊州・桂陽》の太守で、元々は[曹操]の命令で任命されていました。
かの[趙雲]と同じ、趙氏の者ですが、あくまで遠い親戚で、
苗字が同じ程度のものだそうです。
[趙雲]を騙し、同じ姓を持つ者同士として彼を懐柔しようとするものの、
結局のところ失敗。
伝によれば、この話の後に、[曹操]の元へ逃亡したというのです。
特に彼が悪政を敷いていたという話はありませんが、
[趙雲]を騙そうとして失敗したり、それ以降出番がないなど、
器の小さい人間とされているようです。
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