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第四部「荊州争奪」第四十六集
時代背景:209年(建安14年) 『南郡の戦い』
物語は[曹操]の元から離れ、再び[劉備]達の元に。
[劉備]は、《荊州》に対しての軍を進め始めており、
これに対して攻撃を仕掛けるべきと言う[甘寧]ら。
しかしながらこれに対して、[周瑜]は意外なことに、
《南郡》を[劉備]に取らせるように言うのです。
配下の[呂蒙]には明かす、[諸葛亮]の策は、
《南郡》を攻めるふりをしていると、そう考えていたのでした。
そして[諸葛亮]は、[周瑜]らが《南郡》で戦っている内に、
漁夫の利を得るつもりだろうと。
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一方の[諸葛亮]は、[周瑜]を欺くために、彼の裏をいくため、
《南郡》攻めをわざと隠そうと動きます。
偵察にやってきた[呂蒙]を欺くために、戦いをしようとしていることを、
隠しているふりを見せるという手を取るのでした。
更に[劉g]もそこに援軍としてやって来ていると言うのです。
[劉g]は《江夏》に五万の兵があり、それならば《南郡》を攻められる。
と、[周瑜]は見抜きます。
[劉g]がいて軍もいるのか否か、直接偵察にやって来た[周瑜]。
実際、[劉備]の親戚の[劉g]はおり、重病に冒されているのでした。
それに対し、《南郡》は攻めて取るつもりだと、正直に話す[諸葛亮]。
全く譲らない[周瑜]は、三十日で《南郡》を取るといい、
自信を見せるのです。
そして、[周瑜]により『南郡の戦い』が始まりました。
《南郡》を守るのは『曹操軍』の名将[曹仁]であり、
彼らの軍の[牛金]と、[甘寧]らとの戦いが始まりました。
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しかし[曹仁]は、わざと[牛金]を囮のように出兵させており、
これは、彼を追ってきた兵を、城へと引き入れるための策なのでした。
[周瑜]がやって来た時には、軍は[曹仁]によって壊滅させられており、
両者が激しいぶつかり合いを続けていきました。
このエピソードの注目点
“動き出す《荊州》の争い”
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『赤壁の戦い』の激しい戦いに比べると、《荊州》を巡った争いは、
いわば政治的な領土争いにもなります。
しかし、この《荊州》という地が、三国の要所となるために、
これからの時代を描くためにはなくてはならない話なのです。
そして三国のバランスを保ち、危うくするものであったのも、
この《荊州》からなのです。
そのため、決して軽視をすることはできない土地なのです。
それは痛いほど描かれていく事になりましたね。
注目の人物
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[甘寧 興覇]
吹替:大羽武士
西暦?年〜?年
元は山賊であったものの、突然思い立ったように[黄祖]の配下になり、
[孫策][孫権]に仕えた人物です。
元々が山賊であったためか、かなり粗暴な性格であったと言われており、
特に[凌統]とは、彼の父親を戦死させていることから不仲でしたが、
[呂蒙]が間に入った事によって、やがて共に戦うようになったと言われています。
彼が『夷陵の戦い』で戦死したというのは、『三国志演義』の創作ですが、
[孫権]が[甘寧]の死去を惜しむという話が伝わっています。
このドラマでは[周瑜]配下の若い武将であり、
[呂蒙][凌統][周泰]とともに描かれるのは、割りとお決まりのようです。
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