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第四部「荊州争奪」第四十七集
時代背景:209年(建安14年)『南郡の戦い』
《南郡》における激しい戦いで、[曹仁]を追い詰めたかに見えた[周瑜]でしたが、
無人と思われた砦を攻めた時、[曹仁]の軍の激しい攻撃に遭ってしまいます。
[周瑜]の軍はこの攻撃で、打撃を受けただけでなく、
[周瑜]自身も負傷をしてしまうのです。
[周瑜]達は一旦撤退せざるえを得なくなり、手負いの彼を追って、
[曹仁]らの追跡が始まりました。
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[周瑜]は毒矢を受け、今動けば傷が開き、安静が必要というのですが、
[諸葛亮]に《南郡》を捕える訳にはいかないと、
無理をして動き出そうとするのです。
[曹仁]は、負傷した[周瑜]を無理矢理引っ張り出してくるために、
挑発的行為を繰り返し、
更に負かしたら妻である[小喬]を[曹操]に差し出してやるとまで言い、
我慢ならく激高した[周瑜]はついに、矢傷が開いて倒れてしまいます。
しかし[周瑜]は、これを利用したのです。
自分が死んだと、家臣に悲しむふりをさせ、
これを周りにも信じさせるのです。
唯一見抜いたのは[諸葛亮]。
彼は、[曹仁]が出て行った隙に《南郡》を取るべきといいます。
そうして領地を制していかなければ、いずれは滅ぼされると、[劉備]を励まします。
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[曹仁]が[周瑜]が死んだものと思い込んで攻めてきたところ、
[周瑜]が生きていた事を知り、慌てて引き返します。
この隙に《南郡》を狙う[周瑜]。
しかしすでにこの《南郡》は、[諸葛亮]によって遣わされた[趙雲]によって、
奪われた後だったのです。
再び、傷が開いたのか[周瑜]はまたしても倒れてしまい、
撤退せざるを得ないことに。
そして《南郡》だけでなく、三つの城が、[劉備]の手によって抑えられたと報告が入り、
ますます[周瑜]は追い詰められることになるのです。
紆余曲折あり、結局《荊州・襄陽》は[劉備]のものとなります。
しかし、他人の土地を、卑怯な手で手に入れたと、
不本意な様子の[劉備]。
ですが、[諸葛亮]は、[曹操]が、[劉備]達と[孫権]達を争うのを待っており、
今は[孫権]とは手を結んで、[曹操]と牽制すべきだと言うのです。
こうして、自分の地盤となる《荊州》の一領地を手に入れた[劉備]。
この事態に我慢成らない[周瑜]は、挙兵を願うために、
[孫権]に連絡を入れます。
[孫権]も、《荊州》の一部が取られた事に怒りを感じるものの、
今、争っていて利を得るのは[曹操]だと判断し、
ここは見過ごす判断をするのです。
このエピソードの注目点
“自らの負傷をも利用する[周瑜]の策”
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守りにかけた戦では相当に強かったという[曹仁]に対して、
《南郡》に攻め入った[周瑜]達との激しい攻防戦が描かれる今回。
[周瑜]はこの戦いで矢に当たり負傷しましたが、
それさえも利用して[曹仁]らを欺いた[周瑜]。
これによって、《南郡》は[周瑜]らのものとなりましたが、
ここで済んでいたのならば、[周瑜]の傷も悪化しなかったでしょう。
一方で、[諸葛亮]はさらにその先をいき、《荊州》を取られるということに―。
これにより、[周瑜]と[諸葛亮]との関係はますます危ういものに―。
注目の人物
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[程普 徳謀]
吹替:里 卓哉
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『孫呉』には多くの勇猛な、武勇ある武将がいますが、
[孫堅]の代から仕えている、[黄蓋][韓当]らにも並ぶ歴戦の将軍の一人です。
『赤壁の戦い』では、《烏林》で『曹操軍』を撤退させ、
また続くこのエピソードの『南郡の戦い』でも[曹仁]を敗走させている、
という活躍を見せています。
[周瑜]とは仲が悪かったそうですが、やがて人柄を認めて、
お互いに認め合うことになったとされています。
《荊州》での争いでも、“南郡太守”などになり、
『孫呉』のために活躍したと言われています。
いつ死去したかは不明ですが、215年くらいまでは生きていたとも言われており、
《荊州》の統治に励んだ人物ともされています。
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