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第四部「荊州争奪」第四十三集
時代背景:西暦208年(建安13年)
[曹操]は『赤壁の戦い』に敗北。
命からがらな[曹操]は、何としても本陣のある《南郡》へと逃れようとします。
しかしながら、そんな[曹操]を取り逃した[関羽]に[諸葛亮]が、
軍令に反したとして処刑を言い出すものの、
[劉備]は義兄弟と共に死ぬと誓っているため、そんなことはできないと、
自らが自決をしようとまでしてしまうのです。
そんな中、《江東》からやってきていた、[魯粛]は、
[関羽]は義理を重んじただけで許してやって欲しいというと、
[諸葛亮]は、すんなりと[関羽]を許すのでした。
これは実は[諸葛亮]の芝居の一つ。
ですが、[魯粛]もこれに乗って、見過ごすのです。
[魯粛]は、[劉備]と[孫権]の間の関係の穏健派であり、
同盟を保つためにわざと芝居に乗るのでした。
しかし[周瑜]はそれに納得する事ができず、変わらず[劉備][諸葛亮]を、
ほうっておくことが出来ない、そのように言うのです。
[魯粛]は、今後三十年は、[劉備]らと同盟を結ぶべきと、
[孫権]に言い、彼を納得させるのでした。
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一方、[曹操]はようやく《南郡》に辿り着き、敗戦の傷も覚めないまま。
この『赤壁の戦い』の敗因はすべて自分にありと、
[曹操]は、命からがら戻ってきて泣き崩れている[許?]に、笑えと言い、
三万の兵を与えると、敗戦の将軍達の士気を再び挙げるのです。
[曹操]は、この敗北の責任を問いただすのではなく、
奢っていた自分を謝罪。負けを味わう時がくるべくして来たと、
最終的には自分達が勝てると、そう説いていくのです。
しかし、家臣達がじっと聴きこんでいる中、一人、眠り込んでいるという、
失礼な態度を取っている者が一人。
[曹操]はその人物に目をつけ、つまみ出すのでして投獄してしまうのですが、
後にわざわざ牢までやってきて、対面するのです。
待っていたとばかりのその男。
わざと[曹操]を自分の元に来させるために、彼は失礼な態度を取っていたといい、
今度は自分が語り出します。
『赤壁の戦い』の敗因を、[曹操]自身が降伏してきた勢力ばかりで、
反感を買っていたからと言うのです。
そして、天下が三分しており、これから、[曹操]が進むべき道を説くのです。
具体的に、富国強兵の策を唱えるのでした。
これに聞き入った[曹操]。彼は男の意見に感服し、
その男の正体を、[司馬懿]、字を仲達と見抜くのです。
実は[司馬懿]は仮病ばかり使って、[曹操]には仕えていなかったのですが、
三顧の礼よろしく何度も彼を配下に迎えたかったようですが、
ここで、彼の方からやってくることになるのでした。
このエピソードの注目点
「[司馬懿]の登場」
『三国志』では[諸葛亮]のライバル格であり、
言わば敵役ではあるのですが、彼を上回るほどの才覚の持ち主。
彼よりも先に[諸葛亮]の寿命がきてしまった、ということもありますが、
最終的には『三国時代』に決着を付けるきっかけを作りました。
しかしその才知ゆえに[曹操]には警戒心を抱かせ、
長い間、表舞台にたつことはなく、実際に[司馬懿]の名が知られる事になるのは、
[曹操]の孫[曹叡]の時代、大将軍[曹休]が失敗してからのもの。
しかし[司馬懿]は懐刀をずっと忍ばせており、
『魏』の国を守るために必要になるのは、自分自身であると気づくようになるのです。
注目の人物
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[司馬懿 仲達]
吹替:佐々木勝彦
西暦179年(光和2年)〜251年(嘉平3年)
『三国志』としての登場は、相当に早いと言われている[司馬懿]ですが、
いかにせん、今作のドラマでは主役格の一人なので。
また、実際に[曹操]に仕えたのもこの頃と言われています。
ただ、一度も[諸葛亮]のような軍師になったことはなく、
彼はあくまで将軍でありました。ほとんど軍師役だったそうなのですが。
彼が重要視される理由は、[諸葛亮]にとって最大の敵であったということと、
三国を統一する、『晋王朝』の礎を築き、次男[司馬昭]、孫[司馬炎]により、
三国時代に決着がついた、ということにあります。
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