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第三部「赤壁大戦」第四十ニ集
時代背景:西暦208年(建安13年)『赤壁の戦い』
[諸葛亮]による“東南の風”の計略はなり、
いよいよ『赤壁の戦い』の一大衝突が起ころうとしています。
このドラマの前半最大の戦と言われている戦いがついに。
[劉備]の元へと脱出してきた[諸葛亮]は、
『曹操軍』にとどめを刺すために、[趙雲][張飛]らに追撃を与えますが、
何故か[関羽]だけには命令を与えないのです。
それは、[曹操]に命を助けられた恩から、彼を逃してしまうのではないか、
と判断してのことですが、
[諸葛亮]は、[関羽]が[曹操]を逃がすものと確信して、彼を遣わすのです。
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そしていよいよ始まる『赤壁の戦い』。
それは、[黄蓋]のいつわりの降伏による火計船の突撃から、
[曹操]が怪しんだ時にはもう遅く、火計船には火がつけられ、
それが次々と『曹操軍』に突撃してくることに。
これには『曹操軍』も想定外の被害を受ける事になります。
[曹操]自身も危機的な状況に陥り、命からがら部下に守られて逃げるということに。
更にそれには、“東南の風”も手伝い、
『曹操軍』側は火を使えないという事態に。
大軍を前にして、[黄蓋]らの部隊は次々と敵陣を破っていきます。
しかし[諸葛亮]としてみれば、[曹操]が死んでしまっては、
最終的な計略がならず、『曹操軍』の残党との不倶戴天の敵になってしまう、
と弟子の[馬謖]に指摘されるのです。
そして、いずれ『孫呉』と全面的に戦う事になると。
[諸葛亮]の目はすでに《荊州》に向けられており、
いかに彼らと接するかと考えていたのでした。
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一方、敗走する[曹操]は、
わずかな将兵しか残っておらず、[趙雲][張飛]らに追い詰められていくのです。
夜も開けた頃、命からがらな[曹操]。
彼は、自分に対して一向にしかけてこない[周瑜]の軍に、
[劉備]に殺させたいという事を見抜いていました。
“孫劉連盟”など所詮成り立ちはしない、と言うものの、
そんな彼の前に現れたのは、[関羽]。
逃亡する彼らの前に立ちふさがる事になりますが、
ここで[曹操]が説くのは、[関羽]の彼への義理。
[曹操]が彼に頼むのは、[関羽]によって討ち取らせようとするもの。
[関羽]になら討ち取られても、恨むことはないと言う[曹操]。
しかしこの覚悟に心打たれたのか、[関羽]は、[曹操]を斬ることができず、
わざと[曹操]を逃すのです。
こうして『三国志』の物語は、『曹操軍』の大規模な敗北で、
一つの転換点を迎える事になるのでした。
このエピソードの注目点
「壮絶なる『赤壁の戦い』と、義理の[関羽]」
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『赤壁の戦い』は、歴史や伝説でも伝えられている通り、
壮絶な戦いとして展開していきます。
やはりこの戦いで主役となるのは、火。
紅蓮の炎と共に描かれる大船団への衝突は、凄まじいの一言で、
それを何とも言えぬ表情で見つめている[曹操]も非常に印象的です。
そして敗走した[曹操]を待ち構えていた[関羽]。
ここで彼が[曹操]を討ち取っていたならば、よくある話でしかなかったのですが、
[曹操]に対しての[関羽]の微妙な立場が、
よりこの話を印象深いものとしています。
この辺り、『赤壁の戦い』よりも先を描くこのドラマとして、
『レッドクリフ』には無かったシーンです。
注目の人物
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[程c 仲徳]
西暦141年(永和6年)〜220年(黄初元年)
『曹操軍』の三大軍師の一人。
このドラマでは少し頼りなさ気なところもあり、[郭嘉][荀ケ]が、
切れ者として描かれている感はありますが、
[曹操]の最期まで付き従った人物で、子孫も活躍をしています。
[曹操]の腹心、参謀としては、長い間活躍をしており、
[劉備]を倒すことはできないだろうとまで言っていた時期もあります。
『三国志演義』ではこの戦いにも登場しており、
[関羽]には[曹操]は討てないだろうと見透かしているという描写があるのです。
『赤壁の戦い』自体に参陣していたかは不明です。
[郭嘉][荀ケ]の死後も仕え、[曹操]の息子の[曹丕]にも仕えている辺り、
優秀な人物だったことは間違いないようです。
[曹操]と同じ年になくなっていますが、その時実に80歳と、
非常に長生きをしている人物でもあります。
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