陽平関の戦い

『陽平関の戦い』

期間:215年(建安19年)
場所:漢中・陽平関

『張魯軍』対『曹操軍』
[張魯][張衛][董昭]他 対 [曹操][夏侯惇][許?]他
戦力:? 対 ?

結果:[曹操]の《漢中》制覇


○[曹操]の威信回復

『赤壁の戦い』で大敗をしてしまった[曹操]ですが、

彼は『潼関の戦い』によって、西方を攻略して威信を回復し、

そして、次に彼が狙うことになったのが《漢中》でした。

ここは、『蜀』への足がかりとなる地であり、

同時期に、[劉備]が《成都》に無血開城をしており、

再び[曹操]が[劉備][孫権」]に近づくための足がかりとなる地でもありました。


●《漢中》の占領

元々天然の要害でもあり、また、[劉邦]ゆかりの地でもある『漢』であり、

《漢中》は、戦略的な要地でもありました。

そして、《陽平関》は難攻不落の地であり、

『曹操軍』は侵略をするも、足止めを余儀なくされていました。


一方で、この地の守護であり、後の三国以外唯一残っていた勢力の、

[張魯]は元々戦うことをためらっていたものの、

弟である[張衛]が、強行的な判断をしたことによって、

出兵してしまうことに。


『曹操軍』は形勢不利と見て撤退を開始したものの、

[曹操]が撤退したものとして油断していた[張衛]の軍は、

夜襲と大規模な攻撃で大いに大敗させ、

[曹操]は夜襲を成功させました。


この時、『曹操軍』は、大量の弩をもってして、敵陣を攻撃したと、

そう言われています。


●《漢中》のその後

一方、《陽平関》が落とされたと知った[張魯]は、そのまま敗走を決めましたが、

自分達の兵糧や宝物は倉に入れたまま手にかけず、

無傷で残したと言われています。

そのため、[曹操]は後に降伏した[張魯]を不遇な扱いとせず、

“鎮南将軍”に任じるのでした。


[曹操]は《漢中》を治める事となり、以後、[劉備]らと、

この土地を巡って争いを繰り広げるのです。


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定軍山の戦い
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