定軍山の戦い

『定軍山の戦い』

期間:217年(建安21年)〜219年(建安23年)
場所:益州・漢中

『曹操軍』対『劉備軍』
[曹操][夏侯淵][張コウ]他 対 [劉備][張飛][黄忠][法正]他
戦力:? 対 ?

結果:[劉備]の《漢中》制覇、[夏侯淵]の戦死


○[劉備][孫権]の衝突と、[張魯]の降伏。

[劉備]と[孫権]は《荊州》を巡って緊張状態に陥り、

幾度かの衝突が発生していました。そんな中、[曹操]は、

『陽平関の戦い』で《漢中》の[張魯]を下し、[劉備]達に迫る事になります。

と同時に、後の三国以外の勢力が全て滅んだことになったのでした。


●『巴西の戦い』

[曹操]は、[張魯]を降伏させた後、[張コウ]を南下進軍させ、

《巴西》《巴東》を攻略し、[劉備]らと対峙します。

この時、[張飛]も進軍し、50日以上の対峙の後、1万人の[張飛]の精鋭が、

迂回して攻撃を仕掛けて[張コウ]を下し、退却させました。

同時に、《巴西》《巴東》が[劉備]の領地になります。


●『武都の戦い』

元[劉璋]配下であった[法正]は、[夏侯淵][張コウ]には《漢中》は守れない、

とそう判断して、218年、[劉備]は[張飛][馬超]らとともに進軍します。

[曹操]はこのころ若い世代の武将[曹洪][曹休]らに期待を寄せ、

[曹洪]に総指揮を取らせます。


[張飛][馬超]らは、[曹洪]の総攻撃に遭って、[呉蘭][雷銅]らを失うのでした。


●『定軍山の戦い』

そして219年、『定軍山の戦い』が起こります。

[劉備]が《定軍山》に布陣して、[夏侯淵][張コウ]がこれを迎え撃ち、

1万人の部隊を[張?]は耐え抜きました。しかし、焼き払い攻撃などに、

だんだんと[張?]は苦戦するようになり、[夏侯淵]が救援に向かいます。

この時、[夏侯淵]は、[劉備]の攻撃に遭い、また、軽率にも、焼き払われた茂木の修復に、

自ら4百程度の寡兵で出向いてしまい、

この隙を狙って[黄忠]が、軍太鼓を鳴らさせながらの攻撃を大々的にしかけました。

[夏侯淵]は[黄忠]の軍の襲撃に立ち向かうも敗北して討ち取られてしまうのでした。


●[夏侯淵]討死の影響

[夏侯淵]は当時、『曹操軍』のナンバー2とされており、

彼の死去が与えた影響は大きなものでした。

息子である、[夏侯栄]も父や兄に従って攻め込んで討ち取られています。

そして、混乱に陥った『曹操軍』でしたが、

[夏侯淵]の幕僚であった[郭淮]は、全軍に命令して、[張?]を新たな大将とします。


一方、[夏侯淵]討ち取りの功績も大きなものであり、

様々な文献でしっかりと記載がされており、彼を討ち取った[黄忠]は出世、

[関羽][張飛][馬超]と並ぶ軍の重鎮となるのでした。


●[曹操]の進軍

[曹操]は、自ら大軍を率いて《漢中》奪還に出向きます。

[趙雲]が、[黄忠]の軍の帰還時間になっても帰ってこないことに、

偵察に出向いたところ、たまたま『曹操軍』と出会う事態が起こります。

[趙雲]は一旦は逃走するものの、『曹操軍』を追撃させ、

これを“空城の計”をもって対応して、敵軍を破るのでした。


●《漢中》制覇と、『曹操軍』の影響

これらの経緯を持ってして、《漢中》は[劉備]らのものになり、

[曹操]は、数ヶ月にわたって攻撃をしたものの決定打には欠いてしまい、

最終的には撤退します。

[劉備]は、“漢中王”を名乗り、《中原》の攻略を明らかにしました。

また、[関羽]は、《荊州》北部の攻撃を始め、

この時、『曹操軍』は大規模な敗退の後であったため、

『樊城の戦い』でも大いに苦戦する事になります。


しかし、[劉備]達の快進撃にも、いよいよ決定的な出来事が起こり、

歴史が大きく動くのでした。


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