西暦223年 『南中平定』

↑前の時代西暦219年〜223年 『定軍山の戦い』『樊城の戦い』『夷陵の戦い』



「[諸葛亮]の“南征”の始まり」

“丞相”として、[劉備]の跡を継いだ[劉禅]の補佐をしていた[諸葛亮]は、
『呉』と再び和睦するように手を打ちます。
そして“南征”を願い出るのでした。
この機会に《南中》一帯の反乱を収めて、後顧の憂いを絶とうとしていたのです。



「『南中の戦い』」
西暦224年
 
この当時、南方で最も力を持っていたと言われるのは、
南中王と言われる、[孟穫]でした。

《南中》へと赴いた[諸葛亮]は、“心を攻めるが上策”と考え、
《南中》の民を心服させるという方針で臨みます。



「一度目の対決」

[諸葛亮]と[孟穫]の最初の対決では、まずは[趙雲]が散々に打ちのめして、
それから逃れてきたところを待ち伏せしていた[魏延]が手捕りとするのでした。

ですが、[孟穫]は屈服すること無く、[諸葛亮]は解放して、
再戦の機会を与えます


「二度目の対決」
 
慎重になった[孟穫]は、河岸に土塁を築くことによって、対陣の構えを取ります。
『蜀軍』は暑さと毒とかした河を渡り、
南中の将軍を下して、再び[孟穫]を手捕りとするのでした。
それでもまだ[孟穫]は屈しませんでした。


「三度目の対決」
 
[諸葛亮]は、陣営を案内した上で、[孟穫]を放ちます。
すると[孟穫]は、敵陣の様子は分かったからと、
弟の[孟優]に偽りの降伏をさせるのですが、裏をかかれ、
兄弟もろとも捕らえられてしまうのです。


「四度目の対決」

怒った[孟穫]は十万もの《南中》の兵を集め、
『蜀軍』の陣に押し寄せるのでした。
すると[諸葛亮]は、陣を捨てて逃げてしまいます。
しかしこれも策略であり、取り囲まれ、落とし穴にはまった[孟穫]は、
再び虜となります。


「五度目の対決」

敗戦を重ねた[孟穫]は、『蜀軍』を迎え撃つという作戦に切り替え、
4つの毒泉へと誘い込もうとします。
しかしながら、[諸葛亮]は、[孟穫]の兄、[孟節]の助言を得て難を逃れ、
またしても[孟穫]を捕らえるのでした。


「六度目の対決」

[孟穫]の妻である[祝融]までもが出陣をするのですが、
逆に捕虜とされてしまいます。
[孟穫]は、象や虎なども猛獣を使う軍勢を呼び寄せますが、
[諸葛亮]の作った炎を吹く巨獣、
“虎戦車”に蹴散らされてしまいます。


「七度目、最後の対決」

[孟穫]は、矢も刀も受け付けないという藤の鎧を
身にまとった、藤甲兵の力を借ります。
しかしその弱点を見ぬいた[諸葛亮]の火炎によって破られ、
[孟穫]は、七度目の捕縛になります。


「“南征”を終えて」

さすがに[孟穫]もついに折れて、『蜀』への心からの帰順を誓うのでした。
こうした南方の平定は終わり、『蜀軍』は帰国します。
南を治めた[諸葛亮]には、
北の大国が待ち構えていました。

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234年 『五丈原の戦い』 

西暦227年〜234年 『[諸葛亮]の“北伐”』『五丈原の戦い』
西暦227年〜234年 『[諸葛亮]の“北伐”』『五丈原の戦い』


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