○来歴
「孫呉」という三国の一つを生み出すことになるきっかけの基盤を、
「孫策」「孫権」という息子たちと共に作り出し、
「孫権」が「呉」の初代皇帝になるという、偉大なる孫呉の武将です。
春秋時代の兵家・孫武の子孫とは言われていますが、
家柄の生まれはよくわかっておらず、
呉軍で海賊征伐等を17歳から行なっており、
朝廷からも信頼されていました。
●活躍
「孫堅」は各地で反乱の鎮圧を行うなどして武功を立てていきますが、
やがて『黄巾の乱』が起こります。
彼は「宛城」の攻略等で大勝利を収め、さらにのし上がります。
その後、朝廷の権威を手に入れた「董卓」によって、
「孫堅」はいくつかの乱を鎮圧するために出兵しており、
「辺章・韓遂軍」などは、恐れをなして逃げてしまうほどだったとか。
やがて、「董卓」は暴君と化していきます。
『反董卓連合』に参加した「孫堅」は『陽人の戦い』などで大勝利を収めます。
さらに、「董卓」は「洛陽」の都を焼き払うのですが、
この後に、「孫堅」は、井戸の中から“伝国の玉璽”という、
皇帝を名乗ることができるものを手に入れるのでした。
この後、袁術の配下になった孫堅ですが、
「襄陽」の「劉表」を攻めた時に、一人でいた時、矢に当たり、死去してしまうのです。
数々の武功があったにもかかわらず、その最期は唐突にやってきてしまうのでした。
享年37歳という若さです。
よく『反董卓連合』での戦いが、「蜀」の「関羽」の武功と描かれがちですが、
それはあくまで『三国志演義』などの影響で、
実際に活躍したのは、「孫堅」だったりします。
さらに『三国志演義』での描かれ方として、
彼が、“伝国の玉璽”を手に入れ、皇帝になれると慢心したために、
不運な戦没をしたという話ですが、これはどうなのでしょうか?
●人物
ともあれ、「孫堅」は、「劉備」「曹操」よりも早くから『後漢』の朝廷に信頼され、
武勇を誇っていたのは事実。
それは息子たちにも立派に引き継がれたようですね。
また、彼の娘「孫尚香」も、武勇を持ち、勝気なお姫様になれたのは、
「孫堅」の影響が大きいのでしょう。
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