父「孫堅」、兄「孫策」の遺志を継ぎ、『呉』の国を立ち上げ、
皇帝にまでなった人として有名。『孫呉』の初代皇帝になります。
父、兄共に短命でしたが、「孫権」は『三国時代』の皇帝で最も長生きで、
77歳まで生き、『孫呉』の発展に努めました。
兄、「孫策」とは6歳の歳が離れているようです。
その若き時は、背は高かったものの、胴長短足だったとも言われていますが、
“碧眼児”などとも呼ばれ、父「孫堅」には期待をかけられていたそうです。
しかし、虎狩を、護衛もつけずに好んでいたり等、無邪気なところもありました。
そして「孫権」が19歳の時、兄「孫策」が死去。
彼は19歳にして、孫家の長となります。
彼は父、兄から引き継いだ家臣団をまとめあげ、政権を充実、
江東に大きな勢力を作り上げるのですが、
やはり脅威となったのは、北の「曹操」でした。
『劉備軍』を徹底的に追い詰め、しかし、「諸葛亮」の説得で開戦を決断。
軍師「周瑜」は『赤壁の戦い』で大いに「曹操軍」を守ります。
この戦いの後、領土争いなどで、「劉備」と不仲になります。
「曹操」の死後、息子「曹丕」が『魏』を建国して皇帝に。
一時的に、彼の皇帝位を承認するのですが、
さらに、『曹操軍』と共に「劉備」の義兄弟である「関羽」を討ったため、
彼を激高させてしまうのです。
『夷陵の戦い』で完膚なきまでに打ち破った「孫権」らですが、
この後に和睦しています。
222年、『呉』が建国され、
「孫権」が皇帝となったのは正式には、229年。
『魏』とは再び対立して、『蜀』の諸葛亮の『北伐』などの動きに合わせ、
何度か『魏』に侵攻、巧みに勢力を拡大したのです。
この後も、「孫権」は何度か『魏』に攻め込んでいますが、
大きな戦果を得ることはできないのでした。
「孫権」は長生きでしたが、やがて自分の寿命も感じてきたのでしょう。
しかし「孫権」の長男である「孫登」は彼よりも早く33歳で病没。
三男、四男の間とそれぞれを支持する者同士で対立。
家臣たちの対立が泥沼化してしまい、
この家督争いに関与した、信頼すべき軍師「陸遜」と不仲になり、彼は憤死。
他にも家臣たちが次々と処刑、自殺、追放と、
『呉』の国には早くも暗雲が立ち込めます。
「孫権」は病床につくようになり、結局家督争い、家臣の不仲は解決できぬまま、
死去してしまいました―。享年71歳。
彼の後を継いだのは末子の「孫亮」になります。
構成の評価としては、「孫権」という人は、
世の中の動きを読み、外交等思慮深さを見せていました。
一時は『魏』に下るも、自ら『呉王』となって、再び攻めるなど、
外交技術には長けていたようです。
しかしながら、幼いころから、無鉄砲で無邪気なところがあり、
感情のまま行動してしまったということがあり、
それは彼が老齢になるにつれ顕著になってしまいます。
非常に酒好きであり、その割には長生きをしたのですが、
部下に酒をすすめる時、酔い潰すまで飲ませる悪い癖は、
『呉王』の伝統のようになってしまいました…。
確かに「孫権」は、父や兄をも超えた偉人でしょう。
若くして、家督を譲られた時は、父や兄にはかなわないと言っていたものの、
結果的に皇帝になっているのです。
『真・三國無双』などのストーリーでは、父や兄を越え、偉人となる若者、
といった姿で描かれている英雄です。
ただ、冷静さにかけてみると、「曹操」「曹丕」「司馬懿」等に比べて、
劣ってしまっていたことが、後の『呉』の腐敗からも明らかだと思います。
|