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後に『三国時代』を統一することになる、『晋王朝』の礎を築いた人物として知られ、
それが果たした役割は、非常に大きなものとなっています。
しかし、『三国時代』と呼ばれる歴史の中でも、
後半で活躍した人物、更に表舞台に立つ事がなかった事もあり、
そこまで著名な人物とは知られていませんでした。
ただ、彼の孫、[司馬炎]は、『晋』を建国し、『三国時代』を統一しているので、
歴史の教科書にも乗っている人物として知られています。
その祖父である[司馬懿]も、もちろん重要な歴史上の人物です。
○来歴
元は、太守をしていた[司馬防]の次男として生まれます。
彼は、後に“司馬八達”といわれる、優秀な八人兄弟の一人でした。
中でも[司馬懿]は、博覧強気・才気に溢れる人物と知られ、
“司馬八達”の中で最も優れた人物と言われていました。
●[曹操]への出仕
西暦201年(建安6年)〜
22歳〜
[司馬懿]は、かねてから推挙されており、
[曹操]から何度も連れてくるように言われていましたが、
[司馬懿]は『曹氏』に仕える事を望んでおらず、
病気などを理由に逃げているほどでした。
ですが結局は“捕らえてでも連れてくるように”と命令されたため、
ようやく出仕するのでした。
●[曹操][曹丕]配下時代
〜西暦226年(黄初7年)
〜47歳
[司馬懿]は、[曹操]の息子である[曹丕]と仲がよく、
何かと彼を庇っていました。
[曹丕]からは絶大な信頼を得るようになっていました。
220年、[曹操]が死去し、[曹丕]が“魏王”に、そして『魏』の皇帝になり、
そこで[司馬懿]は[曹丕]に重用されることになります。
彼は、[曹丕]の四友とされていました。
●『魏軍』時代の『蜀』との戦い
西暦226年(黄初7年)〜西暦235年(青龍3年)
47歳〜56歳
しかし[曹丕]が若くして死去し、[曹叡]が明帝として皇帝に即位します。
[曹丕]が死ぬときに、[曹叡]の補佐を任される事になりました。
『曹一族』とは権力争いが起こり、
[司馬懿]は幾度かの失脚をしていますが、
『曹一族』の有力者である[曹真][曹休]らが、
『蜀』『呉』の討伐に失敗して大敗したため、
[司馬懿]は、西暦230年に大将軍に昇進する事になるのでした。
西暦231年、[曹真]が死去し、[司馬懿]が後任として、[張コウ][郭淮]らを従え、
“北伐”に当たっていた[諸葛亮]と戦います。
●『五丈原の戦い』
西暦234年(青龍2年)
55歳
『蜀軍』は、食糧不足により何度も撤退していますが、
[諸葛亮]が、西暦234年『五丈原の戦い』で“北伐”の最終決戦を挑んできます。
この戦いに対して[郭淮]らと防衛に徹します。
[諸葛亮]は屯田を行って、持久戦の構えをもって、[司馬懿]と長期間対峙するものの、
彼が病死をしてしまったため、『蜀漢』は撤退するのでした。
その後、長く対峙した[司馬懿]はその陣営跡を見て、
“[諸葛亮]は天下の奇才だ“と褒め称えるのでした。
しかしそれでも、『蜀漢』が『魏軍』に再度攻撃する様子を見せたので、
[司馬懿]は退却するのです。
その事で人々はことわざを作り、“死せる諸葛、生ける仲達を走らす”
とも言い、ある人は、[司馬懿]は“生者を相手にすることはできるが、
死者を相手にするのは苦手だ”と言うのでした。
●『公孫淵の乱』
西暦238年
59歳
[諸葛亮]との戦いの後、《遼東》で[公孫淵]が氾濫を起こし、
『魏』から独立して王朝を建てようとするものの、
どうすれば、[公孫淵]を倒せるかと聞かれた[司馬懿]は、
1年以内に決着を着ける事を約束し、
兵糧の少ない[公孫淵]を、持久戦で、1年以内の約束通りに決着をつけています。
●『正始の変』
西暦249年
70歳
やがて、西暦239年、若くして『魏』の二代皇帝[曹叡]が死去。
[曹真]の長男[曹爽]と共に、[司馬懿]は、まだ幼い皇帝[曹芳](この時若干7歳)
の補佐をするように言い残します。
しかし権力独占を狙った[曹爽」によって、[司馬懿]は名誉職に追いやられ、
その実権を失うことになります。
この頃、西暦241年に『呉』から、西暦244年に『興勢山の戦い』で、
『蜀』と戦った[曹爽]は大失態をし、
追い詰められた[曹爽]は事あるごとに[司馬懿]と対立するようになります。
この後、西暦249年1月6日、[曹爽]が[曹芳]の供をして、[曹叡]の墓参りをするため、
《洛陽》を離れた時、
病気のふりをして油断を狙っていた[司馬懿]は、クーデターを起こします。
これを『正始の変』と言ったりします。
[司馬懿]は、[郭太后]に上奏して、[曹爽]兄弟の官職を解任し、
《洛陽》を制圧しました。
元々は、[曹爽]一族を軟禁するまででしたが、彼らが更に謀反を重ねとしたため、
処断をされることになり、
後の時代の『曹一族』と『司馬一族』の因縁は続くことになります。
[司馬懿]はもはや『魏』の政治中枢で、皇族を超えるほど実権を握っていたものの、
彼は“丞相”の位を与えられている時、それを辞退しています。
●その最期
西暦251年(喜平3年)
72歳
その晩年、[王陵]らによる『曹一族』が実権を取り戻そうとするクーデターを、
密告により察知し、降伏させるなどの活躍をします。
さらに『魏』の皇族は軟禁し、もう反撃を起こせないようにも。
[司馬懿]は晩年に『魏』の実権を完全に掌握したものの、
72歳で死去。長命ではありましたが、
『三国統一』は彼の孫の世代まで待たなければなりません。
○性格
それほど創作物がメインではなかったので、
あまり性格の内情が描かれる事はありませんでしたが、
結構な激情的で苛烈な性格であり、しかし内心は怒りを抱いている時にも、
それを顔に出さないという、
心情を読めない人物であったことが分かります。
また、『魏』の礎を作った[曹操]は、
“[司馬懿]は誰かに仕えるような男ではない”と常に警戒されていた、
と言われていますが、結果的にそれは的中するものとなりました。
ただ、『魏』の実権を掌握したのは、[曹爽]らの専横を防ぐためであったためのクーデターで、
彼が人を裏切ったという話は伝えられていません。
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