司馬懿 仲達

名:司馬懿(しばい)
字:仲達(ちゅうたつ)
-Sima Yi-

諡号:宣帝
廟号:高祖

所属:曹操軍→魏国
役職:→録尚書事・撫軍大将軍・仮節
→驃騎将軍→大将軍

出生:《河内群》温考敬里
生年:光和2年(179年)
没年:喜平3年(251年)8月5日
(享年72歳)


-伝-
『晋書』
巻1『帝紀第1 宣帝』[高祖宣帝](司馬懿)


-血縁関係-

父:[司馬防]

兄:[司馬朗] 
弟:[司馬孚][司馬馗][司馬恂][司馬進]
[司馬通][司馬敏]

妻:[張春華][伏夫人][張夫人][柏夫人]

男子:[司馬師][司馬昭][司馬亮]
女子:[南陽公主][高陸公主]


『真・三國無双』

CV:初代〜7作目:滝川毅/7作目〜:置鮎龍太郎
『魏』の武将というよりも軍師の立場の人物として、
独特な高笑いやキャラクター性などから、
非常に色物という人物で人気があります。
元は『魏』の所属だったのですが、
『晋王朝』の礎を築いた人物として、
『真・三國無双6』からは、あくまでも『魏』の人物として、
『晋』の所属となっています。


『三国志大戦』

彼の活躍が[諸葛亮]との対決、
それも50代を過ぎたころから、
晩年の70代までということもあって、
老齢な、しかし油断ならない
智将として描かれる事も多いようです。


『Magic:The Gathering』における「司馬懿」

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:佐々木勝彦
これまで実写ドラマでも主役の少なかった彼が、
物語終盤の主役格として、
新たな人物像が描かれるものとなりました。
まさしく“何を考えているのかわからないような表情”
が得意なこの俳優さんの演技も相当なものですが、
だんだんと、“人間としての[司馬懿]”になってくるのも魅力です。


ドラマ『曹操』

吹替:
まさかの少年時代の[司馬懿]登場。
[曹操]が成人しているので、
二人の歳の差があることが分かります。
父の[司馬防]曰く、
“息子は頭が良すぎて、私でも叶わないほどだ。”
だそうです。


後に『三国時代』を統一することになる、『晋王朝』の礎を築いた人物として知られ、

それが果たした役割は、非常に大きなものとなっています。

しかし、『三国時代』と呼ばれる歴史の中でも、

後半で活躍した人物、更に表舞台に立つ事がなかった事もあり、

そこまで著名な人物とは知られていませんでした。


ただ、彼の孫、[司馬炎]は、『晋』を建国し、『三国時代』を統一しているので、

歴史の教科書にも乗っている人物として知られています。

その祖父である[司馬懿]も、もちろん重要な歴史上の人物です。


○来歴

元は、太守をしていた[司馬防]の次男として生まれます。

彼は、後に“司馬八達”といわれる、優秀な八人兄弟の一人でした。


中でも[司馬懿]は、博覧強気・才気に溢れる人物と知られ、

“司馬八達”の中で最も優れた人物と言われていました。


●[曹操]への出仕
西暦201年(建安6年)〜
22歳〜

[司馬懿]は、かねてから推挙されており、

[曹操]から何度も連れてくるように言われていましたが、

[司馬懿]は『曹氏』に仕える事を望んでおらず、

病気などを理由に逃げているほどでした。

ですが結局は“捕らえてでも連れてくるように”と命令されたため、

ようやく出仕するのでした。


●[曹操][曹丕]配下時代
〜西暦226年(黄初7年)
〜47歳

[司馬懿]は、[曹操]の息子である[曹丕]と仲がよく、

何かと彼を庇っていました。

[曹丕]からは絶大な信頼を得るようになっていました。


220年、[曹操]が死去し、[曹丕]が“魏王”に、そして『魏』の皇帝になり、

そこで[司馬懿]は[曹丕]に重用されることになります。

彼は、[曹丕]の四友とされていました。


●『魏軍』時代の『蜀』との戦い
西暦226年(黄初7年)〜西暦235年(青龍3年)
47歳〜56歳

しかし[曹丕]が若くして死去し、[曹叡]が明帝として皇帝に即位します。

[曹丕]が死ぬときに、[曹叡]の補佐を任される事になりました。


『曹一族』とは権力争いが起こり、

[司馬懿]は幾度かの失脚をしていますが、

『曹一族』の有力者である[曹真][曹休]らが、

『蜀』『呉』の討伐に失敗して大敗したため、

[司馬懿]は、西暦230年に大将軍に昇進する事になるのでした。


西暦231年、[曹真]が死去し、[司馬懿]が後任として、[張コウ][郭淮]らを従え、

“北伐”に当たっていた[諸葛亮]と戦います。


●『五丈原の戦い』
西暦234年(青龍2年)
55歳

『蜀軍』は、食糧不足により何度も撤退していますが、

[諸葛亮]が、西暦234年『五丈原の戦い』で“北伐”の最終決戦を挑んできます。

この戦いに対して[郭淮]らと防衛に徹します。

[諸葛亮]は屯田を行って、持久戦の構えをもって、[司馬懿]と長期間対峙するものの、

彼が病死をしてしまったため、『蜀漢』は撤退するのでした。


その後、長く対峙した[司馬懿]はその陣営跡を見て、

“[諸葛亮]は天下の奇才だ“と褒め称えるのでした。

しかしそれでも、『蜀漢』が『魏軍』に再度攻撃する様子を見せたので、

[司馬懿]は退却するのです。


その事で人々はことわざを作り、“死せる諸葛、生ける仲達を走らす”

とも言い、ある人は、[司馬懿]は“生者を相手にすることはできるが、

死者を相手にするのは苦手だ”と言うのでした。


●『公孫淵の乱』
西暦238年
59歳

[諸葛亮]との戦いの後、《遼東》で[公孫淵]が氾濫を起こし、

『魏』から独立して王朝を建てようとするものの、

どうすれば、[公孫淵]を倒せるかと聞かれた[司馬懿]は、

1年以内に決着を着ける事を約束し、

兵糧の少ない[公孫淵]を、持久戦で、1年以内の約束通りに決着をつけています。


●『正始の変』
西暦249年
70歳

やがて、西暦239年、若くして『魏』の二代皇帝[曹叡]が死去。

[曹真]の長男[曹爽]と共に、[司馬懿]は、まだ幼い皇帝[曹芳](この時若干7歳)

の補佐をするように言い残します。


しかし権力独占を狙った[曹爽」によって、[司馬懿]は名誉職に追いやられ、

その実権を失うことになります。

この頃、西暦241年に『呉』から、西暦244年に『興勢山の戦い』で、

『蜀』と戦った[曹爽]は大失態をし、

追い詰められた[曹爽]は事あるごとに[司馬懿]と対立するようになります。


この後、西暦249年1月6日、[曹爽]が[曹芳]の供をして、[曹叡]の墓参りをするため、

《洛陽》を離れた時、

病気のふりをして油断を狙っていた[司馬懿]は、クーデターを起こします。

これを『正始の変』と言ったりします。

[司馬懿]は、[郭太后]に上奏して、[曹爽]兄弟の官職を解任し、

《洛陽》を制圧しました。


元々は、[曹爽]一族を軟禁するまででしたが、彼らが更に謀反を重ねとしたため、

処断をされることになり、

後の時代の『曹一族』と『司馬一族』の因縁は続くことになります。

[司馬懿]はもはや『魏』の政治中枢で、皇族を超えるほど実権を握っていたものの、

彼は“丞相”の位を与えられている時、それを辞退しています。


●その最期
西暦251年(喜平3年)
72歳

その晩年、[王陵]らによる『曹一族』が実権を取り戻そうとするクーデターを、

密告により察知し、降伏させるなどの活躍をします。

さらに『魏』の皇族は軟禁し、もう反撃を起こせないようにも。


[司馬懿]は晩年に『魏』の実権を完全に掌握したものの、

72歳で死去。長命ではありましたが、

『三国統一』は彼の孫の世代まで待たなければなりません。


○性格

それほど創作物がメインではなかったので、

あまり性格の内情が描かれる事はありませんでしたが、

結構な激情的で苛烈な性格であり、しかし内心は怒りを抱いている時にも、

それを顔に出さないという、

心情を読めない人物であったことが分かります。


また、『魏』の礎を作った[曹操]は、

“[司馬懿]は誰かに仕えるような男ではない”と常に警戒されていた、

と言われていますが、結果的にそれは的中するものとなりました。


ただ、『魏』の実権を掌握したのは、[曹爽]らの専横を防ぐためであったためのクーデターで、

彼が人を裏切ったという話は伝えられていません。


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司馬師 子元
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