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司馬師 子元

名:司馬師(しばし)
字:子元(しげん)
-Sima Shi-

諡号:景帝
廟号:世宗

所属:魏国
主君:[曹叡]→[曹芳]→[曹髦]

出生:《河内群》温県
生年:建安13年(208年)
没年:正元2年(255年)
(享年48歳)


-伝-
『晋書』
巻2『帝紀第2 景帝文帝』[世宗景帝](司馬師)


-血縁関係-

父:[司馬懿]
母:[張春華]

弟:[司馬昭][司馬幹]

妻:[夏侯徽][呉夫人][羊徽瑜]

養子:[司馬攸]([司馬昭]の三男)
女子:[公主]他4人


『真・三國無双』

CV:置鮎龍太郎
『真・三國無双6』から『晋』勢力で登場。
父親ゆずりの頭脳派であり、また統率者としての風格もあり。
しかしそれは時に冷酷なものでもあるという、
[司馬懿]をより冷静な人物にしたようですね。


『三国志大戦』

言わば、若く、冷静な王者といった風です。
冷酷そうでありながらも知的であり、
一般的な[司馬師]評を表しているかのような姿です。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:宮内敦士
[司馬懿]の息子として活躍するのが、
ほとんど[司馬昭]であり、
彼自身も登場はしますが、本当に数回程度の登場です。
戦場での姿が見られませんが、彼が[司馬昭]と同じく、
父の跡を継いだ人物なのは確かです。



○来歴

後に『三国時代』を統一することになる、『晋王朝』の礎を築いた[司馬懿]の長男。

そして彼自身もその『晋王朝』統一のため、

様々な活躍と『魏』国内の統制を行います。

若い時から評判がよく、“[司馬子元]のみが、天下を掌握できる”

と言われていたりもしました。

『魏』の散騎常侍を拝命し、皇帝の近衛兵を指揮する立場にもついています。


●『正始の変』と実権の継承
西暦249年〜252年(42歳〜44歳)

[司馬懿]が専横をする[曹爽]に対してのクーデターの計画をねった時、

それに[司馬師]も参加していました。

[司馬師]は叔父の[司馬孚]と共に《洛陽》を、

どこからやってきたかも分からないと言われる三千人の兵で囲み、

結果、クーデターは成功。

“子元もやるようになった”と父に言われた[司馬師]は、

この功績で“衛将軍”になります。


そして251年8月に父[司馬懿]が死去。

その跡をついで、“撫軍大将軍”になった[司馬師]は『魏』の全権を掌握し、

252年には“大将軍”になりました。


●『呉』との戦い『東興の戦い』『合肥新城の戦い』
252年〜253年(44歳〜46歳)

西暦252年、『呉』の皇帝[孫権]が死去。

[司馬師]は、これに[胡遵][諸葛誕]らに《東興》を攻めさせますが、

これは『呉』の大都督である[諸葛恪]の前に大敗。

[司馬師]は自分の責任と過失であるといい、

その度量に周りは驚かされ、むしろ恥じたと言われていますが、

これは逆に自分の権力を固めようとした、国を盗むための、

一手であったという辛辣な評価もされています。


勢いづいた[諸葛恪]は、253年4月に《合肥新城》にまで攻めてきますが、

[カン丘倹]と[文欽]に防衛と20万の大軍を[司馬師]は与え、

数ヶ月の包囲網の後、守りに硬い《合肥新城》もあり、

撤退させる事に成功しました。


●[曹芳]廃位
西暦254年(47歳)

この頃、皇帝よりも、実権を確実に握っていた[司馬師]に対して、

皇帝[曹芳]とその一派は対抗心を抱き、

『司馬一族』を排除しようとする動きが強まっていました。


[曹芳]と通じていた[李豊][張緝][夏侯玄]らを、

自分が排除する前に[司馬師]は一斉に粛清し、

さすがに皇帝にまでは手を出さなかった[司馬師]ですが、

[曹芳]の粗暴が悪い事を理由に彼を廃位させてしまいます。

そして、[明帝(曹叡)]の後継者が帝位にふさわしいとして、

[曹髦]も新たな皇帝とします。


●『カン丘倹・文欽の乱』
西暦255年(48歳)

[司馬師]が実権を握った『魏』では、

[カン丘倹][文欽]らが6万の兵を率いて挙兵し、

これを鎮圧するように軍を派遣する事が望まれます。

[鍾会][王粛]らは[司馬師]が出陣することを望み、

彼自らが出兵する事になりました。


結果、投降兵が相次いだ反乱は鎮圧されることになり、

[カン丘倹]は捕らえられて斬られ、[文欽]と武勇ある息子の[文鴦]は逃走。

また『呉』が攻めてきたものの、《寿春》にて[諸葛誕]がこれを制圧し、

[孫峻]らの軍を打ち破っています。


●持病の悪化とその最期、後継者

これらの活躍と、冷酷なまでの粛清行為をも行った[司馬師]ですが、

持病として目に悪性の瘤を持っていました。

[文欽]らの反乱鎮圧には、この手術後間もなく出兵し、

更に[文鴦]の奇襲を受けて無理をしてしまったため、病状が悪化してしまいます。

[司馬師]は軍の士気を下げまいと傷を隠していましたが、

やがて激痛に襲われるようになり病状が悪化してしまいます。


彼は弟の[司馬昭]を呼び、軍を委ね、自身は《許昌》で死去しました。

享年48歳。死後は、弟の[司馬昭]が跡を継ぎます。

[司馬師]には男子がおらず、[司馬昭]の次男[司馬攸]を養子としていましたが、

[司馬昭]の長男[司馬炎]がその兄であったため、

[司馬昭]を後継としました。

司馬一族の力は[司馬昭]へと受け継がれていくことになります。


○人物

冷静沈着で、品性良好。父にも周りにも期待されていた[司馬師]は、

確かに堕落すること無く父の後継を務め上げます。

しかし[司馬懿]が結構用心深く、長年をかけて『魏』の実権を握ったものの、

[司馬師]の時代には、『司馬一族』の力は隠し切れないものだったはずです。


反発や対抗勢力は確かにおり、[司馬師]の敵は多かった事でしょう。

それに対し、確実な引き締めを行った[司馬師]は、

後世にも悪評もありますが、『魏』の国で内乱を起こさないため、

反乱鎮圧などでも活躍しました。


[司馬師]の暗殺計画などもあったようですが、

国を実質取りまとめていた彼を暗殺してしまっては、

三国のバランスが保たれている中では『魏』の国を危うくした事でしょう。


そして彼の後継となった[司馬昭]は、

三国の拮抗に決定的な一打を与える事になっていきます。


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司馬昭 子上
司馬昭 子上