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司馬昭 子上

名:司馬昭(しばしょう)
字:子上(しじょう)
(子尚(『三国志演義』での名))
-Sima Zhao-

諡号:文王→文帝
廟号:太祖

所属:魏国
主君:[曹叡]→[曹芳]→[曹髦]→[曹奐]

出生:《河内群》温県
生年:建安16年(211年)
没年:咸熙2年8月9日(265年9月6日)
(享年56歳)


-伝-
『晋書』
巻2『帝紀第2 太祖文帝』[世宗景帝](司馬昭)


-血縁関係-

父:[司馬懿]
母:[張春華]

兄:[司馬師]
弟:[司馬幹]他

妻:[王元姫]、他数人の側室

子:[司馬炎][司馬定国][司馬攸][司馬兆][司馬広徳]
[司馬鑒][司馬機][司馬永祚][司馬延祚]
女子:[京兆長公主]


『真・三國無双』

CV:岸尾だいすけ
『真・三國無双6』から『晋』勢力で登場。
兄[司馬師]との対比もあってか、ゆるい性格で、
度々周囲の反感を買ってばかりの彼。
しかし、父や兄の行いや死に直面し、
王者としての器に目覚めていくようになります。


『三国志大戦』

[司馬昭]の風貌などが伝わっていないので、
その描かれ方は様々なのですが、
やはり[司馬懿]の息子であること、
そして『魏』の実権を握っただけの王者としての姿が、
描かれることが多いようです。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:乃村健次
[司馬懿]の息子として活躍する人物。
年齢的に若すぎる(20歳くらいのため)のですが、
[諸葛亮]の北伐に父と共に参戦し、
さながら父の参謀のような姿を見せ、
次代の後継者として描かれる事になります。



○来歴

後に『三国時代』を統一することになる、

『晋王朝』の礎を築いた[司馬懿]の次男。

そして彼の息子[司馬炎]が

そして彼自身もその『晋王朝』統一のため、

様々な活躍と『魏』国内の統制を行い、

『蜀王朝』を滅ぼし、統治する事をしています。


いわゆる陰謀家としても知られており、[曹操]の行いとよく似ている、

とも評される事で知られています。


西暦238年に“新城郷候”に報じられ、

西暦244年の[曹爽]の蜀討伐、『興勢山の戦い』に従軍するまで、

あまり目立った活躍はありません。


●『正始の変』
西暦249年(38歳)

父[司馬懿]の一世一代のクーデター。

この時、兄[司馬師]とともに従軍し、[曹爽]一派を失脚させていますが、

この計画を前日の夜に、兄に初めて聞かされた、とのこと。

『魏』の実権を握っていた[曹爽]一派は滅亡の途を辿ります。


2年後に父[司馬懿]が死去。権力は彼等の時代に移ります。


●『カン丘倹・文欽の乱』と兄の死、家督相続
西暦255年(44歳)

[カン丘倹]と[文欽]が反乱を起こし、

兄[司馬師]が討伐軍を率いて向かう中、

《洛陽》を守る任務につきます。

しかし兄が、乱の鎮圧後、男子をもうけないまま死去し、

[司馬昭]が家督を相続しました。

西暦256年には、大都督となります。


●『諸葛誕の乱』
西暦257年〜258年(46歳〜47歳)

『魏』の武将である[諸葛誕]が反乱を起こすものの、

[司馬昭]は、皇帝[曹髦]と皇太后を奉じて26万もの大軍で、

これを陥落させます。


●皇帝[曹髦]の挙兵と、その殺害
西暦260年(49歳)

かねてから『司馬一族』の実質的な統治に不満を抱いていた、

皇帝[曹髦]は、『司馬氏』打倒のために自ら挙兵。

わずかな手勢で挑んでくるものの、[司馬昭]の腹心の[賈充]が、

配下の[成済]に命じ、皇帝を殺害してしまいます。

皇帝殺害の罪はあまりに重いと、[成済]は処刑されますが、

腹心の[賈充]が罰せられることはありませんでした。

そして[司馬昭]によって、新たな皇帝[曹奐]が立てられますが、

これはもはや傀儡としての皇帝でした。


●『蜀』討伐とその滅亡
西暦263年(53歳)

[司馬昭]は拮抗した三国の鼎立に決着をつけるため、

『蜀』の討伐に、[ケ艾][鍾会][諸葛緒]に三方向から『蜀』を攻撃し、

国力に大きな差があるこの『蜀』の国を滅亡させ、

[劉禅]を降伏させました。

三国鼎立の状態はここで崩れる事になるのです。

この功績もあってか、翌年、“晋王”の爵位を授かります。


●その最期と後継
西暦265年(56歳)

中風によって56歳で死去。諡は“文王”

兄[司馬師]の養子でもあった[司馬攸]に爵位を譲ろうとするものの、

周囲に反対されたため、長男の[司馬炎]が跡を継ぎます。


そしてこの[司馬炎]が、

三国時代に最終的な決着をつけることになるのでした。


○人物

兄[司馬師]のように容姿面や、期待されていたといったことが、

あまり伝わっていないのは次男ゆえか。

皇帝[曹髦]殺害に関わっており、『蜀』を滅亡させていることから、

陰謀家として知られるのがその人物評です。


しかし自分が悪く言われるであろうということを、

すでにわかった上で行動しているとも言われ、

[諸葛誕]の反乱を鎮圧した後も、首謀者達は捕らえ、処罰したものの、

捕虜となったものは皆放免したといいます。

これにより、天下の人は、[司馬昭]の武を恐れ、

同時に徳に慕うようになったと言います。


自分の政敵に対し、攻撃や反乱を仕掛けてくれば、それを排除するが、

民心を欠くことはしなかったと。


最近では[司馬昭]が主人公格、ないしは重要人物の物語も多く、

ドラマ三国志などでも、兄[司馬師]を差し置いて、

[司馬懿]の息子として、更に後継者として重要な役割を担うなど、

[曹操]などと同じように[司馬昭]評も見直されてきているようです。

実際、彼なくして、三国時代の決着はなかったのですから。


ただ、皇帝との対立や、政敵の排除、実質的『魏』の実権を握るという姿は、

「司馬昭之心、路人皆知也」

“権力を狙う野心家の陰謀はだれでも知っている”という、

中国の言葉で知られています。

そこまで言われていて政敵が多くても、物事を成し遂げる辺りは凄いと思うのですが。


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王元姫
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