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○来歴
後に『三国時代』を統一することになる、
『晋王朝』の礎を築いた[司馬懿]の次男。
そして彼の息子[司馬炎]が
そして彼自身もその『晋王朝』統一のため、
様々な活躍と『魏』国内の統制を行い、
『蜀王朝』を滅ぼし、統治する事をしています。
いわゆる陰謀家としても知られており、[曹操]の行いとよく似ている、
とも評される事で知られています。
西暦238年に“新城郷候”に報じられ、
西暦244年の[曹爽]の蜀討伐、『興勢山の戦い』に従軍するまで、
あまり目立った活躍はありません。
●『正始の変』
西暦249年(38歳)
父[司馬懿]の一世一代のクーデター。
この時、兄[司馬師]とともに従軍し、[曹爽]一派を失脚させていますが、
この計画を前日の夜に、兄に初めて聞かされた、とのこと。
『魏』の実権を握っていた[曹爽]一派は滅亡の途を辿ります。
2年後に父[司馬懿]が死去。権力は彼等の時代に移ります。
●『カン丘倹・文欽の乱』と兄の死、家督相続
西暦255年(44歳)
[カン丘倹]と[文欽]が反乱を起こし、
兄[司馬師]が討伐軍を率いて向かう中、
《洛陽》を守る任務につきます。
しかし兄が、乱の鎮圧後、男子をもうけないまま死去し、
[司馬昭]が家督を相続しました。
西暦256年には、大都督となります。
●『諸葛誕の乱』
西暦257年〜258年(46歳〜47歳)
『魏』の武将である[諸葛誕]が反乱を起こすものの、
[司馬昭]は、皇帝[曹髦]と皇太后を奉じて26万もの大軍で、
これを陥落させます。
●皇帝[曹髦]の挙兵と、その殺害
西暦260年(49歳)
かねてから『司馬一族』の実質的な統治に不満を抱いていた、
皇帝[曹髦]は、『司馬氏』打倒のために自ら挙兵。
わずかな手勢で挑んでくるものの、[司馬昭]の腹心の[賈充]が、
配下の[成済]に命じ、皇帝を殺害してしまいます。
皇帝殺害の罪はあまりに重いと、[成済]は処刑されますが、
腹心の[賈充]が罰せられることはありませんでした。
そして[司馬昭]によって、新たな皇帝[曹奐]が立てられますが、
これはもはや傀儡としての皇帝でした。
●『蜀』討伐とその滅亡
西暦263年(53歳)
[司馬昭]は拮抗した三国の鼎立に決着をつけるため、
『蜀』の討伐に、[ケ艾][鍾会][諸葛緒]に三方向から『蜀』を攻撃し、
国力に大きな差があるこの『蜀』の国を滅亡させ、
[劉禅]を降伏させました。
三国鼎立の状態はここで崩れる事になるのです。
この功績もあってか、翌年、“晋王”の爵位を授かります。
●その最期と後継
西暦265年(56歳)
中風によって56歳で死去。諡は“文王”
兄[司馬師]の養子でもあった[司馬攸]に爵位を譲ろうとするものの、
周囲に反対されたため、長男の[司馬炎]が跡を継ぎます。
そしてこの[司馬炎]が、
三国時代に最終的な決着をつけることになるのでした。
○人物
兄[司馬師]のように容姿面や、期待されていたといったことが、
あまり伝わっていないのは次男ゆえか。
皇帝[曹髦]殺害に関わっており、『蜀』を滅亡させていることから、
陰謀家として知られるのがその人物評です。
しかし自分が悪く言われるであろうということを、
すでにわかった上で行動しているとも言われ、
[諸葛誕]の反乱を鎮圧した後も、首謀者達は捕らえ、処罰したものの、
捕虜となったものは皆放免したといいます。
これにより、天下の人は、[司馬昭]の武を恐れ、
同時に徳に慕うようになったと言います。
自分の政敵に対し、攻撃や反乱を仕掛けてくれば、それを排除するが、
民心を欠くことはしなかったと。
最近では[司馬昭]が主人公格、ないしは重要人物の物語も多く、
ドラマ三国志などでも、兄[司馬師]を差し置いて、
[司馬懿]の息子として、更に後継者として重要な役割を担うなど、
[曹操]などと同じように[司馬昭]評も見直されてきているようです。
実際、彼なくして、三国時代の決着はなかったのですから。
ただ、皇帝との対立や、政敵の排除、実質的『魏』の実権を握るという姿は、
「司馬昭之心、路人皆知也」
“権力を狙う野心家の陰謀はだれでも知っている”という、
中国の言葉で知られています。
そこまで言われていて政敵が多くても、物事を成し遂げる辺りは凄いと思うのですが。
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