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西暦263年 『蜀の滅亡』

↑前の時代西暦227年〜234年 『[諸葛亮]の“北伐”』『五丈原の戦い』



「[諸葛亮]の“北伐”、その後」
西暦234頃

『蜀』の“北伐”は、[諸葛亮]の死によって終わったように見えました。
皇帝[劉禅]は、その死を悲しんで、
遺言通りに彼を《定軍山》の地に埋葬します。

『蜀』は、“北伐”によって激しく疲弊した国力を回復するために、
内政に専念するようになりました。



「[諸葛亮]の遺志を受け継ぐ[姜維]」
西暦249年頃

 
[諸葛亮]の遺志を受け継いだ[姜維]は、
機会を窺っていました。

『魏』では『正史の変』によって、[司馬懿]が権力を握り、
それによって、[夏侯覇]が『蜀』に降りました。
[姜維]はこれを機に、『魏』の治世危うしと“北伐”を願い出ます。



「[姜維]の北伐」

[姜維の北伐は、、[諸葛亮]の才に及ばない自分達には無理と、諌められましたが、
皇帝[劉禅]に認められ、[姜維]は、[夏侯覇]とともに出陣します。
こうして再び長きにわたる北伐が再開したのです。


「幾度にも及ぶ北伐」
 西暦256年〜

[諸葛亮]から兵法を託されていた[姜維]でしたが、
その前に『魏』の名将である[ケ艾]が立ちはだかります。
[姜維]は一進一退の敗北を繰り返し、
大きな成果を上げることはできぬまま、戦力だけが消耗されていきました。


「『蜀』の内憂」

『蜀』の都《成都》では、[劉禅]は、奸臣の甘言に乗せられてしまい、
対陣中の[姜維]も度々呼び戻されていました。
さらに国内では無理な北伐が国力を疲弊させていると、
批判の声も強くなっていきます。


「『魏』の『蜀』討伐の始まり」
 西暦263年

[劉禅]が暗愚であると聞きつけた『魏』の[司馬昭]は、
『蜀』討伐に乗り出しました。
[姜維]は挙兵を上奏するものの、
それは[劉禅]には届きませんでした。

[姜維]が苦戦している間に、
《漢中》は、『魏』の[鐘会]の手に落ちてしまいました。


「危機に陥る《成都》」

[姜維]はこの危機に、要所である《剣閣》まで軍勢を引き、
守りの姿勢で、[鐘会]の大軍を迎え撃ちました。
しかしその隙をつくように、[ケ艾]は西側の間道から難所を乗り越え、
守りの手薄な《成都》に迫りました。


「[劉禅]、『魏』に降伏する」

滅亡の危機に直面した『蜀』は、[諸葛亮]の子らが軍を率い、
出陣をするものの及ぶことはありませんでした。
[劉禅]はここに降伏して、
自らを後ろ手に縛らせて『魏』の大軍を迎え、
遂に『蜀』は滅亡するのでした―。


「『蜀』の滅亡後…」

《剣閣》において、[劉禅]の降伏の報告を受けた[姜維]は、
[鐘会]に投降をするのでした。
その後、野心あふれる[鐘会]と手を組み、『蜀』で独立をするように、
働きかけるのです。
しかしそれは、『蜀漢』の再興にかける、[姜維]の一世一代の計略でした。


「[鍾会]の乱」
 西暦264年

しかしながら、[鐘会]の企みはすぐに露見してしまい、
[鐘会]は『魏軍』に討たれ、
すべての望みが絶えた[姜維]は自殺してしまいます。

『蜀』は再興することもできないまま、263年、[劉禅]の代で潰えました。

この時、すでに[諸葛亮]の死後、30年が経っていました。


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西暦265年 『魏の滅亡、晋の成立』
西暦265年 『魏の滅亡、晋の成立』


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