西暦227年〜234年 『[諸葛亮]の“北伐”』『五丈原の戦い』

↑前の時代西暦223年 『南中平定』



「諸葛亮、 “北伐”へ」
西暦227年頃

南方を平定した[諸葛亮]は、『出師の表』を[劉禅]に上奏し、
“北伐”に乗り出しました。
一方その頃、『魏』では、病没した[曹丕]に代わって、まだ若い、[曹叡]が即位し、
これを補佐していたのが、[司馬懿]になります。



「[司馬懿]、失脚する」
 
[司馬懿]の才能は、かつて[曹操]が警戒したほどでした。
[諸葛亮]もそれを恐れて、離間の計を仕掛けて、
[司馬懿]を失脚させるのでした。
これによって、“北伐”は多少は容易になるはずでした。



「『天水の戦い』」
 西暦227年

『蜀軍』は、[趙雲]らの活躍によって勝ち進みます。
ですが《天水》の『魏』将である[姜維]は、
[諸葛亮]の策を見破り、[趙雲]と渡り合っていました。
これを見込んだ[諸葛亮]は、計略にかけた上で彼を説得し、
『蜀』に降らせるのでした。


「[司馬懿]、再び立つ」

連勝を続ける『蜀軍』に対して、[曹叡]は[司馬懿]を起用しました。
その才知があまりに優れるゆえに畏れられていた[司馬懿]ですが、
抜擢されると迅速な進軍を進め、『蜀』に寝返ろうとしていた、
[孟達]を討つなどの活躍を見せるのでした。


「『街亭の戦い』」
 西暦228年

更に[司馬懿]は、『蜀郡』の補給線を立つべく先鋒の[張コウ]と、
《街亭》の攻略へと進出。

[諸葛亮]は守備に愛弟子、[馬謖]を差し向けるものの、
己の際に溺れてしまった[馬謖]は指示に背いてしまい、
山地に布陣してしまい、『蜀軍』は《街亭》を失いました。


「“泣いて[馬謖]を斬る”」
 
“空城の計”までを用いて、窮地を脱した[諸葛亮]は、
《漢中》へと帰還しました。
しかしここで、法をゆるやかにしては軍に示しがつかず、
[諸葛亮]は自らの不明を恥じ、
戦犯の[馬謖]を斬罪に処すのでした―。


「『石亭の戦い』」
西暦228年
 
[司馬懿]は、『蜀軍』に備えて守りを固めるようにと進言をして、
討『呉』のための加勢に向かっていました。
しかしながら『呉』の将軍の計略にかかってしまった、
[曹休]が《石亭》で敗れたために、
[司馬懿]は兵を率いて帰還してきます。


「再度の“北伐”へ」
 
幾度にも及ぶ[諸葛亮]の“北伐”は、兵糧不足や、
本国への召喚などによって、成果を上げられぬままでした。
しかしながら帰国した[諸葛亮]は、再び軍勢を率いて兵糧も整え、
“北伐”を願い出ます。


「『五丈原の戦い』」
西暦234年

再び“北伐”に赴いた[諸葛亮]は、山脈を越えて《五丈原》に布陣しました。
そこで屯田を行わせ、自らが開発した、“木牛・流馬”という運搬具を用いて、
兵糧を確保できるようにしたのです。


「『合肥新城の戦い(234年)』」

一方で『魏』は[司馬懿]を送り出しており、持久戦の構えでした。
そこで[諸葛亮]は『呉』で帝位についていた[孫権]に、
北伐軍を興すように要請し、
《合肥新城》を攻撃するという返答を得ます。


「[司馬懿]、挑発される」

[諸葛亮]は、[司馬懿]に婦人の服や装飾品を送って挑発しました。
しかしそれに[司馬懿]は乗らず、勇む諸将を鎮め、
都から堅守を命じる勅使さえ得て、
あくまでも静観の姿勢を貫きました。


「衰えゆく[諸葛亮]」

[司馬懿]は、[諸葛亮]が軍隊を細部まで見ていると知り、
彼の命が長くはないことを察していました。
[諸葛亮]は焦っていました。
激務に消耗して、天命が尽きるとしている事を、
最もよく知るのは彼でした。


「“北伐”の大事はまだ成らず」

更に、『呉』が《合肥新城》から撤退したとの報告が届きます。
思わぬ出来事に落胆をした[諸葛亮]は病に倒れ、
そのまま立ち上がることはなく、諸将に後事を託すと、
その死を迎えるのでした―。


「“死せる諸葛、生ける仲達を走らす”」

『蜀軍』は[諸葛亮]の死を伏せ、その撤退にかかいました。
しかし[諸葛亮]が没したと見た[司馬懿]は、
そのまま追撃をします。

しかしながら『蜀軍』が反撃に転じてきたため、
[諸葛亮]の策略かと慌て兵を退きました。


「天下の奇才、世を去る」

『蜀軍』は、その間に無事に退却を遂げるのでした。
その後、[諸葛亮]の陣の跡を見た[司馬懿]は、
「彼こそ天下の奇才」と感嘆。

『魏軍』を率いて《長安》へと帰還します。
こうして一つの時代が幕を閉じました―。

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西暦263年 『蜀の滅亡』
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