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『成都の戦い(劉備の入蜀)』
期間:212年(建安17年)〜214年(建安19年)
場所:益州(現:四川省)
劉備軍(劉備、張飛、趙雲、諸葛亮、ホウ統など) 対 劉璋軍(劉璋、劉循、張任など)
戦力:
不明 対 不明
結果:[劉備]の勝利、[劉備]の《益州》(巴蜀)支配。
『赤壁の戦い』まで、後の英雄となる[劉備]は、まともな領土を持たず、
その配下の武将も少ないという状況でした。
そんな彼にもようやく転機が訪れ、自らの領地を得るために《巴蜀(益州)》を得る戦いに挑みます。
しかし《益州》を治める[劉璋]は、[劉備]の同族なのでした。
○背景
『赤壁の戦い』の後、[劉備]は勢力を増し、[孫権]配下の[魯粛]は、
反対論を抑え、[劉備]に《荊州》を借地として渡すことになります。
212年のこと、[曹操]と[孫権]が《揚州》をめぐって対立。
この頃、[劉備]はすでに、後に敵対することになる[劉璋]の元にいましたが、
兵力を借りて出陣。しかし[劉璋]からの援軍はわずかであったため、
両者は不仲となります。
●《葭萌城》《?城》の戦い
[劉備]は、[ホウ統]の策略を用いて、[楊懐]と[高沛]を倒し、《白水関》を占領、
さらに[劉璋]から借りた将兵らを人質にして、
《葭萌城》を[霍峻]に守らせて、[黄忠]や[魏延]と共に、《成都》侵攻を始めました。
この[劉備]の侵攻に、[劉璋]は、[冷苞][劉?][張任][トウ賢]らを派遣し、
ことごとく打ち破られていきます。
中でも[黄忠]の勇猛さは常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、
三軍の筆頭にもなる勇猛さを見せていました。
しかしながら、『劉璋軍』も、[張任][劉循]が、《?城》に立てこもってて徹底抗戦をし、
『劉備軍』の[ホウ統]が流れ矢で戦死するなど、
両者損害を出し、1年以上の戦いが続きます。
●《成都》包囲網
しかしながら『劉璋軍』の郡県の長が次々に[劉備]に降伏していき、
戦後まで1年以上にわたって、《広漢県》などが抵抗をしているところもありましたが、
《荊州》にいた[諸葛亮]は、[劉備]の要請を受けて、その留守を[関羽]に任せ、
[劉備]と呼応する形で、[趙雲][張飛]らと手分けをして、
《長江》を遡りながら、郡県を平定。
《成都》へと次々と武将たちを降伏させて向かっていきます。
やがて、[劉備]は、《?城》を攻略して[諸葛亮][張飛]らと合流して
ようやく《成都》を包囲して、[劉璋]を追い詰めました。
●《成都》開城へ
[劉璋]は《成都城》中に3万の兵と1年分の兵糧があり、備えが十分であったため、
こちらでも徹底抗戦しようと考えていました。
しかし[劉備]は《漢中》の地で[張魯]に仕えていたものの、不仲になっていた、
《西涼》の[馬超]へと帰順を説きました。
[馬超]は[張魯]の元から出奔し、[劉備]に帰順。
猛将として知られていた[馬超]が[劉備]についたことに、[劉璋]は震撼。
官民達は、焦土作戦までして徹底的に戦おうと考えますが、
[劉璋]は《成都》の領民達の事を考えました。
[劉備]の元の[法正]は降伏勧告の手紙を送り、
214年の夏に、[簡雍]が使者として[劉璋]の元に向かうと、彼は降伏して、
ようやく《成都》は開城されたのです。
○戦後
[劉備]はあくまでも[劉璋]の身柄と財産を保護して《荊州》に送り、
自らは“益州牧”となりました。
これにより、まともに領土を持つことができなかった[劉備]はようやく、
豊富な物資と精強なる兵士、
そして、[黄権][劉巴][許靖]など、[劉璋]の配下の武将を積極的に召抱え、
陣容が一気に充実させられることになりました。
これに対しては[曹操]も警戒し、《漢中》の[張魯]を攻撃する『陽平関の戦い』を起こし、
[夏侯淵]を置きます。
一方で、あくまで借地であったはずの《荊州》の返還はこじれ、
『蜀』と『呉』の間で亀裂が始めていきます。
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