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○来歴
『魏』の実権を握る事になる[司馬昭]の妻。
そして三国統一を成し遂げる[司馬炎]の母であり、
没後、皇后の名を授かることになります。
この時代の女性にしては珍しく、本名で伝えられる人物で、
品性良好、学問にも優れ、親孝行など、
知的で徳行に優れた人物像で知られます。
○生涯
『魏』に長く使えた[王朗]の孫娘、父[王粛]も『魏』の重鎮です。
その娘の[王元姫]は、8歳の頃には、詩論を暗唱し、
親孝行な娘であったといいます。
9歳の時、母が病に倒れると看病に当たり、
祖父[王朗]はその姿を見て、親孝行ぶりに男として生まれなかった事を惜しみます。
12歳の時、丁度西暦228年、祖父[王朗]が、“北伐”に攻めてきた[諸葛亮]に、
口先だけで憤死させられたという、逸話がある祖父の死が起きます。
その祖父の葬儀で、自然な哀悼の振る舞いをしたため、
父らからますます期待されるようになりました。
年頃になると、後に『魏』の覇権を握る『司馬一族』の[司馬昭]に嫁ぎ、
舅姑には婦道を尽くして仕え、目下の者にもきちんと接したと言います。
○『鍾会の乱』の予見
西暦264年(47歳)
[司馬昭]を支えた者として有名な話に、
ある時、後に『魏』で活躍をする[鍾会]が仕官してきたところ、
[王元姫]は、“[鍾会]は己の利を優先し、義を忘れ、事を起こすのを好み、
重要すれば国が乱れる”と言ったとされています。
そしてそれは[司馬昭]にいつも告げられている言葉でした。
『蜀』の降伏後、確かに[鍾会]は《益州》で反乱を起こします。
[王元姫]が[鍾会]の人格を見抜いていたから、が理由かどうかは分かりませんが、
この乱は早急に鎮圧され、[司馬昭]は『蜀』降伏後の国を安定させます。
○皇太后となる
西暦265年〜268年(48歳〜51歳)
西暦265年に夫の[司馬昭]が死去。
後を継いだ長男の[司馬炎]は『魏』から禅譲を受け、『晋』をたて、
禅譲を受け即位すると、[王元姫]は皇太后となり、
“崇化宮”と称されるようになります。この時に官卿が置かれる事になりました。
しかしこの位についても、彼女は日々のしごとを忘れず、
贅沢をしなかったといいます。
言動には必ず、道理にしがたい、礼儀には外れず、と。
西暦268年に死去し、崇陽陵に合葬されたということです。
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