王元姫

名:王元姫(おうげんき)
-Wang Yuanji-

諡:明(文明皇后)

所属:魏国→晋国

出生:《河内群》温県
生年:西暦217年(建安22年)
没年:西暦268年(泰始4年)
(享年51歳)


-伝-
『晋書』
巻31『帝紀第1 后妃上』[文明王皇后](王元姫)


-血縁関係-
祖父:[王朗]

父:[王粛]
母:[羊氏]

夫:[司馬昭]

子:[司馬炎][司馬定国][司馬攸][司馬兆][司馬広徳]
女子:[京兆長公主]

『真・三國無双』

CV:伊藤かな恵
『真・三國無双6』から『晋』勢力で登場。
金髪と陶器のような肌の美少女であり、
見た目のみならず、とても知的で的を射た言動は、
夫やその兄、父からも信頼されているのです。


『三国志大戦』

無双シリーズのイメージと大分印象が違いますが、
黒髪のお姉さんスタイルの王元姫もあります。
こちらは知的というよりも妖艶ですね。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

夫の[司馬昭]と長男の[司馬炎]は登場しますが、
彼女の出番はなし。
[司馬昭]が主役ではりませんし、
まだ若い時代の話だからという事もあるでしょう。


○来歴

『魏』の実権を握る事になる[司馬昭]の妻。

そして三国統一を成し遂げる[司馬炎]の母であり、

没後、皇后の名を授かることになります。

この時代の女性にしては珍しく、本名で伝えられる人物で、

品性良好、学問にも優れ、親孝行など、

知的で徳行に優れた人物像で知られます。


○生涯

『魏』に長く使えた[王朗]の孫娘、父[王粛]も『魏』の重鎮です。

その娘の[王元姫]は、8歳の頃には、詩論を暗唱し、

親孝行な娘であったといいます。


9歳の時、母が病に倒れると看病に当たり、

祖父[王朗]はその姿を見て、親孝行ぶりに男として生まれなかった事を惜しみます。


12歳の時、丁度西暦228年、祖父[王朗]が、“北伐”に攻めてきた[諸葛亮]に、

口先だけで憤死させられたという、逸話がある祖父の死が起きます。

その祖父の葬儀で、自然な哀悼の振る舞いをしたため、

父らからますます期待されるようになりました。


年頃になると、後に『魏』の覇権を握る『司馬一族』の[司馬昭]に嫁ぎ、

舅姑には婦道を尽くして仕え、目下の者にもきちんと接したと言います。


○『鍾会の乱』の予見
西暦264年(47歳)

[司馬昭]を支えた者として有名な話に、

ある時、後に『魏』で活躍をする[鍾会]が仕官してきたところ、

[王元姫]は、“[鍾会]は己の利を優先し、義を忘れ、事を起こすのを好み、

重要すれば国が乱れる”と言ったとされています。

そしてそれは[司馬昭]にいつも告げられている言葉でした。


『蜀』の降伏後、確かに[鍾会]は《益州》で反乱を起こします。

[王元姫]が[鍾会]の人格を見抜いていたから、が理由かどうかは分かりませんが、

この乱は早急に鎮圧され、[司馬昭]は『蜀』降伏後の国を安定させます。


○皇太后となる
西暦265年〜268年(48歳〜51歳)

西暦265年に夫の[司馬昭]が死去。

後を継いだ長男の[司馬炎]は『魏』から禅譲を受け、『晋』をたて、

禅譲を受け即位すると、[王元姫]は皇太后となり、

“崇化宮”と称されるようになります。この時に官卿が置かれる事になりました。

しかしこの位についても、彼女は日々のしごとを忘れず、

贅沢をしなかったといいます。

言動には必ず、道理にしがたい、礼儀には外れず、と。


西暦268年に死去し、崇陽陵に合葬されたということです。


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ケ艾 士載
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