姜維 伯約

名:姜維(きょうい)
字:伯約(はくやく)
-Ma Dai-

出生:涼州天水郡
生年:202年(建安7年)
没年:264年3月3日(景元5年1月18日)
享年不明

所属:魏軍→蜀軍


-伝-
『三国志』
巻44『蒋腕費イ姜維傳』[姜維]伝


-血縁関係-
父:[姜商]

『真・三國無双』

CV:菅沼久義
『蜀』後半の物語には欠かせない存在として、
一躍主人公の一角ともなろうとしています。
登場は割りと遅い時期なのですが、“麒麟児”の異名に
恥じぬ活躍を見せてくれます。
『三国志大戦』

“天水の麒麟児”の通称で登場。
世代的には『三国志』の有名人たちよりも若い事もあ
って、
若き戦士として登場しています。
『ドラマ 三国志Three Kingdoms』

さすがに[姜維]の時代まで話を描くと、
終わらないこともあって、終盤での登場で、
主役の活躍ではありませんが、
[諸葛亮]幕下の若い武将として登場しています。


『魏国』から『蜀国』へ、そして斜陽の『蜀』の国を、

最後まで支えた武将の一人です。

元は《涼州・天水》の地で“天水の四姓”と呼ばれる豪族で、

異民族討伐で戦死した父の功績から取り立てられ、

『魏』の武将として《天水郡》にいました。


●『蜀』への降伏と“北伐”
228年〜234年(26歳〜32歳)

やがて『蜀』の[諸葛亮]が“北伐”で攻め上ってきて、

[姜維]は偵察に赴くものの、[諸葛亮]と内通しているのではないかと疑われ、

城から閉めだされて行き場をなくしてしまいます。


そして『蜀』の[諸葛亮]に降伏していますが、

『三国志演義』では、[諸葛亮]に才能を見出され、

計略を持ってして降伏させられた、ということになっています。

[諸葛亮]曰く、兵法もあり、度胸も、兵の気持ちも分かっている。

と、その才能をたたえています。


そのまま[諸葛亮]の“北伐”に参加している[姜維]は、

中監軍・征西将軍に昇進。

[諸葛亮]の死後も、《成都》に帰還して、諸軍を統率する事を許されます。


●『蜀軍』を担う存在に
234年〜253年(32歳〜41歳)

軍の中核を担うようになった[姜維]は、西方に通じている、

自分の才能や武勇を強みとして、[諸葛亮]の意志を継いで、

『魏』の[郭淮][夏侯覇]らと戦いますが、

“[諸葛亮]でさえ中原を定められなかったのに、それに遠く及ばない[姜維]には、

とうてい不可能だ”と、[費?]らには言われていました。

ですが、その[費?]が暗殺されると、軍権を握り、

[姜維]は大規模な“北伐”を行います。


●“北伐”と斜陽の『蜀』
254年〜263年(42歳〜62歳)

『蜀』に投降した[夏侯覇]と共に、[徐質]を、

翌254年に《桃水》で[王経]らを破り、『魏』に攻め込み、

256年に大将軍に昇進、しかし《段谷》の地で『蜀軍』は[ケ艾]に大敗し、

“北伐”は大きく後退する事になります。

《漢中》の防備を厚くし、『魏』に備えた[姜維]でしたが、

この頃、『蜀』の内政面では[黄皓]が牛耳り、

皇帝である[劉禅]に流言や、呪いを信じこませていました。


[姜維]は元々《涼州》の出身であったため、朝廷では孤立しがちで、

[姜維]の軍権没収さえ行われようとしていました。

やがて彼は《成都》に帰れなくなります。


●『蜀漢』の滅亡と、『鍾会の乱』
264年(63歳)

263年ごろ、『魏』の侵攻が近いであろうと、[劉禅]に上表した[姜維]でしたが、

[黄皓]によりそれは阻まれ、

やがて『魏』の[司馬昭]の命令を受けて、[ケ艾][鍾会]が侵攻してきます。


《剣閣》の地で[鍾会]の軍と[姜維]が抵抗している時、

[ケ艾]が《陰平》から迂回してきて、ついに《成都》に侵入し、

[劉禅]は降伏。『蜀』は滅亡していました。


[姜維]は『魏』の[鍾会]に降伏するものの、

[鍾会]が『魏』に反逆する意図を抱いている事を見抜き、

[姜維]はそれを促し、『魏』から独立させ、そこに[劉禅]を招き入れ、

『蜀』を復興させようと考えました。


しかしこの目論見は、[鍾会]が進言に従って将軍らを幽閉し、

反乱を準備する段階で露見してしまい、

暴動が起きて、[姜維]は殺害されてしまいます。

一説には自殺とも。享年63歳。


○人柄や活躍について

[姜維]の人柄や行いは、かなり意見が割れているところがあります。

才能は、[諸葛亮]に、『魏』でも[鍾会]らに評価されており、

確かに武将として勇将だったのは確かです。


だが、無理をした“北伐”が『蜀』を疲弊させたのも確かで、

また、この当時[姜維]に匹敵する人材が『蜀』におらず、

[諸葛亮]と比べて、かなり低い評価をされるのです。


“北伐”は、仁の行為だったという評価もあれば、

悪評をする人もおり、これに関しては当時の[姜維]を知らねば何とも言えません。



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魏延 文長
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