『魏国』から『蜀国』へ、そして斜陽の『蜀』の国を、
最後まで支えた武将の一人です。
元は《涼州・天水》の地で“天水の四姓”と呼ばれる豪族で、
異民族討伐で戦死した父の功績から取り立てられ、
『魏』の武将として《天水郡》にいました。
●『蜀』への降伏と“北伐”
228年〜234年(26歳〜32歳)
やがて『蜀』の[諸葛亮]が“北伐”で攻め上ってきて、
[姜維]は偵察に赴くものの、[諸葛亮]と内通しているのではないかと疑われ、
城から閉めだされて行き場をなくしてしまいます。
そして『蜀』の[諸葛亮]に降伏していますが、
『三国志演義』では、[諸葛亮]に才能を見出され、
計略を持ってして降伏させられた、ということになっています。
[諸葛亮]曰く、兵法もあり、度胸も、兵の気持ちも分かっている。
と、その才能をたたえています。
そのまま[諸葛亮]の“北伐”に参加している[姜維]は、
中監軍・征西将軍に昇進。
[諸葛亮]の死後も、《成都》に帰還して、諸軍を統率する事を許されます。
●『蜀軍』を担う存在に
234年〜253年(32歳〜41歳)
軍の中核を担うようになった[姜維]は、西方に通じている、
自分の才能や武勇を強みとして、[諸葛亮]の意志を継いで、
『魏』の[郭淮][夏侯覇]らと戦いますが、
“[諸葛亮]でさえ中原を定められなかったのに、それに遠く及ばない[姜維]には、
とうてい不可能だ”と、[費?]らには言われていました。
ですが、その[費?]が暗殺されると、軍権を握り、
[姜維]は大規模な“北伐”を行います。
●“北伐”と斜陽の『蜀』
254年〜263年(42歳〜62歳)
『蜀』に投降した[夏侯覇]と共に、[徐質]を、
翌254年に《桃水》で[王経]らを破り、『魏』に攻め込み、
256年に大将軍に昇進、しかし《段谷》の地で『蜀軍』は[ケ艾]に大敗し、
“北伐”は大きく後退する事になります。
《漢中》の防備を厚くし、『魏』に備えた[姜維]でしたが、
この頃、『蜀』の内政面では[黄皓]が牛耳り、
皇帝である[劉禅]に流言や、呪いを信じこませていました。
[姜維]は元々《涼州》の出身であったため、朝廷では孤立しがちで、
[姜維]の軍権没収さえ行われようとしていました。
やがて彼は《成都》に帰れなくなります。
●『蜀漢』の滅亡と、『鍾会の乱』
264年(63歳)
263年ごろ、『魏』の侵攻が近いであろうと、[劉禅]に上表した[姜維]でしたが、
[黄皓]によりそれは阻まれ、
やがて『魏』の[司馬昭]の命令を受けて、[ケ艾][鍾会]が侵攻してきます。
《剣閣》の地で[鍾会]の軍と[姜維]が抵抗している時、
[ケ艾]が《陰平》から迂回してきて、ついに《成都》に侵入し、
[劉禅]は降伏。『蜀』は滅亡していました。
[姜維]は『魏』の[鍾会]に降伏するものの、
[鍾会]が『魏』に反逆する意図を抱いている事を見抜き、
[姜維]はそれを促し、『魏』から独立させ、そこに[劉禅]を招き入れ、
『蜀』を復興させようと考えました。
しかしこの目論見は、[鍾会]が進言に従って将軍らを幽閉し、
反乱を準備する段階で露見してしまい、
暴動が起きて、[姜維]は殺害されてしまいます。
一説には自殺とも。享年63歳。
○人柄や活躍について
[姜維]の人柄や行いは、かなり意見が割れているところがあります。
才能は、[諸葛亮]に、『魏』でも[鍾会]らに評価されており、
確かに武将として勇将だったのは確かです。
だが、無理をした“北伐”が『蜀』を疲弊させたのも確かで、
また、この当時[姜維]に匹敵する人材が『蜀』におらず、
[諸葛亮]と比べて、かなり低い評価をされるのです。
“北伐”は、仁の行為だったという評価もあれば、
悪評をする人もおり、これに関しては当時の[姜維]を知らねば何とも言えません。
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