○来歴(『三国志演義』)
詳しい来歴は不明ですが、『三国志演義』などによると、
元は[劉表]配下であり、[劉表]の死後、『曹操軍』の《荊州》攻めから逃れ、
すでに降伏していた[蔡瑁]らに攻撃され、
《長沙》まで逃れた[魏延]は[韓玄]を頼る事になります。
『赤壁の戦い』の後、《荊州》四郡の攻略を開始した[劉備]ですが、
[劉備]と内通を疑われた、[魏延]の同輩の[黄忠]が処刑されそうになり、
憤った[魏延]は、兵士達を先導して[韓玄]を斬り、
城を開けて[劉備]に降伏しています。
しかしこれを[諸葛亮]は裏切りの行為であり、[魏延]には、
頭蓋骨が後部に出ている“反骨の相”がある、
後に必ず裏切ると言い、彼を処刑しようとするものの、
これは[劉備]のとりなしで押さえられ、[魏延]は[劉備]の配下になったといいます。
こういった話があるのは、後の[魏延]と[諸葛亮]の、
同軍にありながらの因縁への伏線であり、『三国志演義』の話。
《荊州》出身かどうかも判明しておらず、
[韓玄]配下であったかどうかも分かっていないようです。
●『劉備軍』の勇将
西暦211年〜221年
[魏延]の活躍が明確に登場するのは、[劉備]の入蜀の際、
戦功を挙げて“牙門将軍”に昇進したことなどで分かります。
[劉備]は、219年に漢中王に即位し、この頃の[魏延]の言動は、
[劉備]やその配下の者達を、感心させるほどだったのだとか。
221年に[劉備]が『蜀』の皇帝として即位すると、
“鎮北将軍”となるのでした。
●[諸葛亮][楊儀]との衝突と“北伐”
西暦223年〜234年
[劉備]が死去し、[諸葛亮]が『蜀』の全権を握った後も、
[魏延]は活躍し、舞台は“北伐”へと移っていきます。
『魏』の武将を次々と打ち破っていく活躍を見せていましたが、
西暦231年の『祁山の戦い』辺りから、
[諸葛亮]の命令を無視して独断の戦いをするなどし、
周りの諸将に敬遠されるようになります。
また[諸葛亮]の有力な幕僚である[楊儀]との仲は悪く、
言い争いになり、剣を突きつけるようなこともあったのだとか。
●[諸葛亮]の死後の対立
西暦234年
やがて“北伐”も完了しないまま、[諸葛亮]は病に倒れ、
彼は内密に、[楊儀][姜維]らに撤退命令を出していました。
しかし[魏延]は[楊儀]の指揮下に入ることをよしとせず、
[諸葛亮]の死後も反発を繰り返し、[楊儀]と対立するようになります。
[魏延]は、『蜀』皇帝[劉禅]に[楊儀]が反逆したと上奏し、
[楊儀]も[魏延]が反逆したと上奏します。
当時の[劉禅]の側近である[董允][蒋?]は[楊儀]を支持し、
ついに[魏延]の討伐命令が下り、
[馬超]の従弟[馬岱]に追撃がされ、[魏延]は処刑されることになりました。
この時[魏延]の配下の者達も、彼の悪評を知っていたので、
見捨てられてしまっていたというそうです。
○後世の評
[魏延]というと、裏切り者、言う事を聞かない乱暴者と、
そのような印象が強いようです。
『蜀』における武勇も確かにあるのですが、
そうした武勇に奢って、自分が[諸葛亮]のいうことなど聞いていられない、
つまり『三国志』の主人公に歯向かうような描写が、
よく思われていない感はあります。
『三国志』著者の[陳寿]によれば、
[魏延]は謀反を起こしたのではなく、[諸葛亮]の後継として、
軍を率いる立場になれるに違いないと期待をしていたが、
[楊儀]らによってそれが阻まれたため、
政敵を倒そうとしたが失敗したと言っています。
一方で、自分が死を招いた原因を作ったのも確かなのだと。
武勇があり『蜀』を支える立場があったものの、
粗野で乱暴な性格の彼は、[諸葛亮]から後継には認められなかった、
ということでしょうか。
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