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魏延 文長

名:魏延(ぎえん)
字:文長(ぶんちょう)
-Wei Yan-

出生:荊州義陽郡
生年:不明
没年:西暦234年(建興12年)
所属:『韓玄軍』→『劉備軍』→『蜀国』

所属:魏軍→蜀軍


-伝-
『三国志』
巻40『劉彭廖李劉魏楊傳』[魏延]伝


-血縁関係-
不明

『真・三國無双』

CV:増谷康紀
“反骨の相”があるという彼の姿は、異形の仮面と、
野性的な動物の装飾があり、
このシリーズでは、あたかも原始的な様相である姿になっています。
最近の姿ではいわゆる狂戦士を意識しているのではないかと。

『三国志大戦』

やはり恐ろしいような印象は変わらず、
それは反骨の相という言葉が、
一般イメージにあるからでしょうか。
『ドラマ 三国志Three Kingdoms』

吹替:大塚芳忠
元は[韓玄]配下で、[黄忠]とともに活躍をしているのは、
『三国志演義』通り。
“反骨の相”、[諸葛亮]との衝突など、[魏延]ならではの姿ですが、
[劉備]配下武将としての活躍もしっかり描かれているので、
ただ言う事を聞かない厄介者ではありません。


○来歴(『三国志演義』)

詳しい来歴は不明ですが、『三国志演義』などによると、

元は[劉表]配下であり、[劉表]の死後、『曹操軍』の《荊州》攻めから逃れ、

すでに降伏していた[蔡瑁]らに攻撃され、

《長沙》まで逃れた[魏延]は[韓玄]を頼る事になります。


『赤壁の戦い』の後、《荊州》四郡の攻略を開始した[劉備]ですが、

[劉備]と内通を疑われた、[魏延]の同輩の[黄忠]が処刑されそうになり、

憤った[魏延]は、兵士達を先導して[韓玄]を斬り、

城を開けて[劉備]に降伏しています。

しかしこれを[諸葛亮]は裏切りの行為であり、[魏延]には、

頭蓋骨が後部に出ている“反骨の相”がある、

後に必ず裏切ると言い、彼を処刑しようとするものの、

これは[劉備]のとりなしで押さえられ、[魏延]は[劉備]の配下になったといいます。


こういった話があるのは、後の[魏延]と[諸葛亮]の、

同軍にありながらの因縁への伏線であり、『三国志演義』の話。

《荊州》出身かどうかも判明しておらず、

[韓玄]配下であったかどうかも分かっていないようです。


●『劉備軍』の勇将
西暦211年〜221年

[魏延]の活躍が明確に登場するのは、[劉備]の入蜀の際、

戦功を挙げて“牙門将軍”に昇進したことなどで分かります。


[劉備]は、219年に漢中王に即位し、この頃の[魏延]の言動は、

[劉備]やその配下の者達を、感心させるほどだったのだとか。


221年に[劉備]が『蜀』の皇帝として即位すると、

“鎮北将軍”となるのでした。


●[諸葛亮][楊儀]との衝突と“北伐”
西暦223年〜234年

[劉備]が死去し、[諸葛亮]が『蜀』の全権を握った後も、

[魏延]は活躍し、舞台は“北伐”へと移っていきます。

『魏』の武将を次々と打ち破っていく活躍を見せていましたが、

西暦231年の『祁山の戦い』辺りから、

[諸葛亮]の命令を無視して独断の戦いをするなどし、

周りの諸将に敬遠されるようになります。

また[諸葛亮]の有力な幕僚である[楊儀]との仲は悪く、

言い争いになり、剣を突きつけるようなこともあったのだとか。


●[諸葛亮]の死後の対立
西暦234年

やがて“北伐”も完了しないまま、[諸葛亮]は病に倒れ、

彼は内密に、[楊儀][姜維]らに撤退命令を出していました。

しかし[魏延]は[楊儀]の指揮下に入ることをよしとせず、

[諸葛亮]の死後も反発を繰り返し、[楊儀]と対立するようになります。


[魏延]は、『蜀』皇帝[劉禅]に[楊儀]が反逆したと上奏し、

[楊儀]も[魏延]が反逆したと上奏します。

当時の[劉禅]の側近である[董允][蒋?]は[楊儀]を支持し、

ついに[魏延]の討伐命令が下り、

[馬超]の従弟[馬岱]に追撃がされ、[魏延]は処刑されることになりました。

この時[魏延]の配下の者達も、彼の悪評を知っていたので、

見捨てられてしまっていたというそうです。


○後世の評

[魏延]というと、裏切り者、言う事を聞かない乱暴者と、

そのような印象が強いようです。

『蜀』における武勇も確かにあるのですが、

そうした武勇に奢って、自分が[諸葛亮]のいうことなど聞いていられない、

つまり『三国志』の主人公に歯向かうような描写が、

よく思われていない感はあります。


『三国志』著者の[陳寿]によれば、

[魏延]は謀反を起こしたのではなく、[諸葛亮]の後継として、

軍を率いる立場になれるに違いないと期待をしていたが、

[楊儀]らによってそれが阻まれたため、

政敵を倒そうとしたが失敗したと言っています。

一方で、自分が死を招いた原因を作ったのも確かなのだと。


武勇があり『蜀』を支える立場があったものの、

粗野で乱暴な性格の彼は、[諸葛亮]から後継には認められなかった、

ということでしょうか。



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黄月英
黄月英