現在の『モンゴル』に近い地である《西涼》の出身、
『蜀』の五虎大将である[馬超]の従兄弟の弟として彼がいます。
父親が[馬超]とは違い、父親の名前は知られていません。
西涼の豪族出身の一人です。
○来歴
[馬超]の父親である[馬騰]は、[曹操]に反旗を翻したため、
一族を滅ぼされてしまいます。
『三国志』正史では、前歴はほとんど不明で、『馬超伝』に話があります。
『三国志演義』では、脇役ではあるものの活躍が多い人物であり、
[曹操]の[馬騰]誅殺の際に[馬超]と共に生き延び、
[曹操]に[馬超][韓遂]らと共に反乱を起こします。
しかし西暦211年『潼関の戦い』で敗北し、『羌族』の地に逃れています。
●[劉備]に仕えるまで
211年〜214年
[馬岱]は、[馬超]と共に行動していたと言われていますが、
実際のところは明確に伝わっていないのです。
もしそうだとしますと、[劉備]が《巴蜀》の地にやってきたときに、
彼に降伏して仕えています。そして将軍の地位を授かり、
『蜀』の国の建国後、[諸葛亮]の“北伐”に参戦して活躍します。
●[諸葛亮]の“北伐”
〜234年
[諸葛亮]の“北伐”の頃から、[馬岱]の活躍が正史でも見られるようになります。
そんな“北伐”も[諸葛亮]の病で末期のころ、
『蜀軍』の[魏延]の謀反が明確になっていき、
[諸葛亮]は、[魏延]が反乱を起こすだろうと予見しており、後の事を託します。
案の定、[諸葛亮]の死後、[魏延]が謀反を起こし、
「わしを殺せる者はおるか」と言い放った彼に、
「ここにいるぞ」と言い、[馬岱]が[魏延]を斬った話は有名です。
●『蜀国』での活躍
234年〜?年
[馬岱]は[魏延]の爵位を譲り受け、『蜀』の忠臣になったのだと言われています。
実際のところ、この後の[馬岱]の活躍は、『晋書』など、
『魏』側の伝に役を譲ることになり、
235年頃に『魏』に攻め込んだものの、[牛金]らの軍にはばまれ、
損害を出して退却をしたという伝があります。
これが[馬岱]の伝えられている話の最後の部分です。
この後、[馬岱]がどうなっていったのかは知られていません。
いつ死去したかも不明ですが、年齢を考えると、
『蜀』滅亡の263年までは生きてはいなかったと思われます。
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