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第ニ部「中原逐鹿」第三十一集
時代背景:207年(建安12年)
[劉備]は、《荊州・襄陽》における[劉表]の後継者争いに巻き込まれ、
彼が《荊州》を狙っていると仕立てあげられ、
有力者[蔡瑁][蔡氏]らに命を狙われる事になるのでした。
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しかし一旦は、[劉表]の長男である[劉g]の助けによって、
命を救われることとなった[劉備]。
もはや、[蔡瑁]らが[劉備]を《荊州》乗っ取りの首謀者として、
抹殺をしたいのは明らかなのです。
しばらくして、[劉表]の領地で催事が行われる事になりました。
肝心の[劉表]は、[蔡氏]の陰謀により、病に伏せることになり、
催事に出席をすれば、[劉備]の命が狙われるのは明らか。
しかしこれに隠すことはなにもないと、
[劉備]は[趙雲]の部隊だけを率いていくのでした。
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そして催事の日、表向きは平和に済まされていたものの、
[劉表]が欠席している今、[蔡瑁]らは[劉備]を始末すべく動きます。
それを嗅ぎつけた[劉備]は、馬にのって逃走。
河を渡り、死地を脱して、再び仲間たちが待つ《新野》へと向かいます。
そして[劉備]は帰還する時、[水鏡先生]こと、[司馬徽]と出会います。
[劉備]の高名はこの地まで届いており、
先生によれば、[劉備]には優れた武将はいるものの、
知識を与える者がいないという事を指摘する彼。
[曹操]に勝つためには、“臥竜”と“鳳雛”という、
知識人が必要であるというのです。
そして[劉備]の前に現れたのは、[徐庶]という人物。
彼の博識ぶりに、彼こそが“臥竜”か“鳳雛”であると思うのですが、
彼は[徐庶]と言い、[諸葛亮]とは別人だったのです。
しかし彼の才能を認めた[劉備]は、彼を軍師として招くのでした。
このエピソードの注目点
「《荊州・襄陽》を狙った陰謀の数々」
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実際は『曹操軍』がせめてくれば、たとえ[蔡瑁]らが支配していても、
敗北するのは明らかで、家督争いをしている場合ではない、のですが。
時勢を読めず、[曹操]の恐ろしさを知らない彼らは、
自分たちがその地を支配する事しか考えていないようです。
注目の人物
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[徐庶 元直]
吹替:郷田ほづみ
西暦?年〜?年
(水鏡先生)こと[司馬徽]の門下生であり、かの[諸葛亮]と、
同門の出身の人物です。そして[諸葛亮]とも知り合いであることが知られています。
突然、[劉備]の元へと現れた彼は、
ちょうど《新野》の地を攻められていた彼に、“八門金鎖の陣”を破る方法を教え、
また、[曹仁][李典]の報復の戦いをも打ち破ったとされています。
[劉備]としては手放したくない軍師であったにも関わらず、
『曹操軍』の軍師、[程c]の策で、母親を人質に取られたとして、
やむなく彼だけが降伏。去り際に[諸葛亮]の存在を教えていくのでした。
実は、[曹操]に降伏した後も結構長生きをしており、
彼の孫の[曹叡]まで仕えているのだとか。
軍師としての印象が強い[徐庶]ですが、かつては撃剣の使い手であり、
友人の敵討をしようとしたという話もあります。
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