三国志 Three Kingdoms 第30話 「曹操、河北を平らぐ」


三国志 Three Kingdoms 第29話 「夜、烏巣を襲う」



「天下の大半が父上の手の内にあります。
あとは、[劉表][劉璋][孫権]らを残すのみです。」
―[曹丕 子桓]

「[劉表]は凡人で、“城守り”にすぎぬゆえ、《荊州》は取れる。
[劉璋]も話にならぬ。
[孫権]は、青二才で兵も少なく心配には及ばん。」
―[曹操 孟徳]




第ニ部「中原逐鹿」第三十集

時代背景:202年(建安7年)〜207年(建安12年)


《荊州》にやってきた[劉備]は、[劉表]から《新野》の地を与えられ、

ようやくその乱世に生きる人生に、一時の安息を得ます。

しかしながら《荊州》における[劉備]の立場は、

危ういものとなってきていました。


[劉表]配下の[蔡瑁]は、彼を警戒しており、

また、[劉表]の息子[劉g]は、今家督争いのまっただ中で、

[劉j]を後継者にさせようと、周りでは動いているというのです。

そして[蔡瑁]は、自分が《荊州》の主になろうと野望を抱いていると言います。


[劉g]は、自分の父の死後、自分を守り引き立てるように、

[劉備]に嘆願するのでした。


[蔡瑁]や、その姉の[蔡氏]が警戒していたのは、自分達を差し置いて、

[劉備]が主になるということ。


一方西暦206年、[曹操]は[袁紹]配下らを殲滅し、《冀州》に入城。

天下最大の勢力となっていました。


そんな中、どうやら[曹操]に放っておかれたらしい、

元[袁紹]配下の[許攸]は、酔って失言を繰り返し、

これが[曹操]配下の[許チョ]の逆鱗に触れてしまい、



[許攸]は首をはねられるという事態に―。


[許チョ]は自分が処断されるのを覚悟に、[曹操]にこれを報告します、

[許攸]と親交があった[曹操]は激高し、彼をすぐに処断するよう言いますが、

軍師の[荀ケ]は、これを抑え、[許チョ]の首は繋がります。

[荀ケ]に言わせれば、[曹操]は実は[許攸]を早く始末したかったらしく、

それを[許チョ]がやってくれたのだと。


その後、[曹操]は、天下最大になった勢力図を眺め、

1年間兵を休めた後、南に兵を進める事を決めるのでした。


数年が経った頃、[劉備]すでに50歳ごろ。

64歳になり、先が短い事を感じたのか、[劉表]は、

自分の息子達の後継者争いを危惧していました。


[袁紹]が滅んだのは、息子達が対立していたゆえ、

と[劉備]は、長男の[劉g]を素直に後継にするように言うのですが、

危険な動きをしている[蔡瑁]一派を取り除くことを、

彼は提案します。



これは、[蔡氏]らにも知られる事になり、

今夜の内に[劉備]を始末しようと、[蔡瑁]らが動き出すのでした。




このエピソードの注目点
「天下最大の勢力となった[曹操]」



『曹操軍』は天下最大の勢力となり、もはや彼らに敵う敵はいない。

そのような状況とまでなるのでした。

もはや敵となるは、[劉表]の他、[孫権][劉璋][張魯]、

さらには《西涼》の群雄達と、数こそ多いものの、

敵はいないであろうということです。


そんな巨大勢力であろうと、戦う意志を依然として崩さない[劉備]。

[曹操]は、このまま天下を平定していたら、

『漢王朝』を平定した英雄だったのですが、そうもいかないのは『三国志』。


《荊州・襄陽》では家督争いが勃発していますが、

[曹操]にとってみれば、そんなものをも飲み込むのはたやすかったようで。



注目の人物



[劉g]
西暦?年〜209年(建安14年)

吹替:手塚ヒロミチ


[劉表]の息子で長男であり、本来は家督を次ぐべき人物でした。

しかしながら、[蔡瑁]やその姉らは、

次男、[劉j]を後継にしたかったらしく、

数々の戯言を振りまき、結局は[劉g]を追放してしまうほどでした。

そして次第に[劉表]は[劉g]を疎んじて、

[劉j]を可愛がるようになってきました。


やがて危機を感じた[劉g]は、[劉備]の元にやってきた[諸葛亮]に相談し、

[孫権]によって討伐された[黄祖]後継として、《江夏》に移ることになったのです。


その後、『赤壁の戦い』の後の《荊州》の争いの前に彼は病没してしまい、

いよいよ、[劉備]らと『孫呉』の関係は危うくなっていきます。


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三国志 Three Kingdoms 第31話 「的盧、壇渓を飛ぶ」
三国志 Three Kingdoms 第31話 「的盧、壇渓を飛ぶ」

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