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第ニ部「中原逐鹿」第三十集
時代背景:202年(建安7年)〜207年(建安12年)
《荊州》にやってきた[劉備]は、[劉表]から《新野》の地を与えられ、
ようやくその乱世に生きる人生に、一時の安息を得ます。
しかしながら《荊州》における[劉備]の立場は、
危ういものとなってきていました。
[劉表]配下の[蔡瑁]は、彼を警戒しており、
また、[劉表]の息子[劉g]は、今家督争いのまっただ中で、
[劉j]を後継者にさせようと、周りでは動いているというのです。
そして[蔡瑁]は、自分が《荊州》の主になろうと野望を抱いていると言います。
[劉g]は、自分の父の死後、自分を守り引き立てるように、
[劉備]に嘆願するのでした。
[蔡瑁]や、その姉の[蔡氏]が警戒していたのは、自分達を差し置いて、
[劉備]が主になるということ。
一方西暦206年、[曹操]は[袁紹]配下らを殲滅し、《冀州》に入城。
天下最大の勢力となっていました。
そんな中、どうやら[曹操]に放っておかれたらしい、
元[袁紹]配下の[許攸]は、酔って失言を繰り返し、
これが[曹操]配下の[許チョ]の逆鱗に触れてしまい、
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[許攸]は首をはねられるという事態に―。
[許チョ]は自分が処断されるのを覚悟に、[曹操]にこれを報告します、
[許攸]と親交があった[曹操]は激高し、彼をすぐに処断するよう言いますが、
軍師の[荀ケ]は、これを抑え、[許チョ]の首は繋がります。
[荀ケ]に言わせれば、[曹操]は実は[許攸]を早く始末したかったらしく、
それを[許チョ]がやってくれたのだと。
その後、[曹操]は、天下最大になった勢力図を眺め、
1年間兵を休めた後、南に兵を進める事を決めるのでした。
数年が経った頃、[劉備]すでに50歳ごろ。
64歳になり、先が短い事を感じたのか、[劉表]は、
自分の息子達の後継者争いを危惧していました。
[袁紹]が滅んだのは、息子達が対立していたゆえ、
と[劉備]は、長男の[劉g]を素直に後継にするように言うのですが、
危険な動きをしている[蔡瑁]一派を取り除くことを、
彼は提案します。
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これは、[蔡氏]らにも知られる事になり、
今夜の内に[劉備]を始末しようと、[蔡瑁]らが動き出すのでした。
このエピソードの注目点
「天下最大の勢力となった[曹操]」
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『曹操軍』は天下最大の勢力となり、もはや彼らに敵う敵はいない。
そのような状況とまでなるのでした。
もはや敵となるは、[劉表]の他、[孫権][劉璋][張魯]、
さらには《西涼》の群雄達と、数こそ多いものの、
敵はいないであろうということです。
そんな巨大勢力であろうと、戦う意志を依然として崩さない[劉備]。
[曹操]は、このまま天下を平定していたら、
『漢王朝』を平定した英雄だったのですが、そうもいかないのは『三国志』。
《荊州・襄陽》では家督争いが勃発していますが、
[曹操]にとってみれば、そんなものをも飲み込むのはたやすかったようで。
注目の人物
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[劉g]
西暦?年〜209年(建安14年)
吹替:手塚ヒロミチ
[劉表]の息子で長男であり、本来は家督を次ぐべき人物でした。
しかしながら、[蔡瑁]やその姉らは、
次男、[劉j]を後継にしたかったらしく、
数々の戯言を振りまき、結局は[劉g]を追放してしまうほどでした。
そして次第に[劉表]は[劉g]を疎んじて、
[劉j]を可愛がるようになってきました。
やがて危機を感じた[劉g]は、[劉備]の元にやってきた[諸葛亮]に相談し、
[孫権]によって討伐された[黄祖]後継として、《江夏》に移ることになったのです。
その後、『赤壁の戦い』の後の《荊州》の争いの前に彼は病没してしまい、
いよいよ、[劉備]らと『孫呉』の関係は危うくなっていきます。
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