![]() ![]()
第ニ部「中原逐鹿」第三十集
時代背景:207年(建安12年)『新野の戦い』
[曹操]は、いよいよ[劉備]を攻めるために《新野》を攻める事にします。
[曹仁]と[李典]は《新野》を攻めるために、
“八門金鎖の陣”を使って鉄壁の守りを展開します。
しかしここは、軍師の[徐庶]が案を出し、
この陣を破る方法をとろうとします。
無闇やたらにこの陣に攻める事は危険であり、
八つの門を順番にくぐり抜ければ、それを崩すことができるというのです。
![]()
これに推薦されたのは[趙雲]で、
陣の真髄を知らない[曹仁]ならば、打ち破れるというのです。
激しい激闘が行われる中、[趙雲]は、[徐庶]の命令通りに、
この陣を打ち破り、ついに“八門金鎖の陣”を打ち崩し、
[曹仁]を追い詰めるに至りました。
追い詰められた[曹仁]は撤退。
これで諦めることができない彼は、その夜の直後に攻めようとするのです。
しかしこの夜襲も読んでいた[徐庶]は、逆に奇襲を仕掛け返し、
《樊城》まで[関羽]に取られたことで、大敗をきすることになったのでした。
敗退した[李典]は、[徐庶]が[劉備]についた事を報告。
これを危惧した[曹操]。軍師の[荀ケ]は、
[徐庶]宛てに、彼の母を人質に取ったとの書簡を送り、
これに動揺した[徐庶]は、《許都》に帰ろうとするのです。
![]()
[徐庶]はその別れ際、自分よりも更に優れた人物がいる事を[劉備]に伝え、
その名を[諸葛亮]“臥竜”というとのこと。
そして[徐庶]は、[曹操]の元にやってくるのですが、
母が囚われているというのは確かでしたが、厚遇されており、
全て軍師の罠であり―、
そしてそれが判明し、[徐庶]が落胆したシーンで、第二部は終わります―。
このエピソードの注目点
「八門金鎖の陣とそれを破る手段」
![]()
このエピソードで描かれるのは『新野の戦い』。
この地を任されていた[劉備]を徹底的に攻めるために、
[曹仁]が敷いたのは“八門金鎖の陣”。
今までの[劉備]だったら、これを無理に破ろうとしても打ち破られてしまっていた。
ということでしょう。
しかし[徐庶]は、兵法に通じており、これを内側から打ち破るのでした。
[劉備]についに軍師がついた。となったものの、
この[徐庶]との縁は引き裂かれてしまいますが、
彼はついに、[諸葛亮]と出会うきっかけを作るのです。
注目の人物
![]()
[曹仁 子考]
吹替:手塚秀彰
168年(建寧元年)〜223年(黄初4年)
[曹操]と同じく“曹氏”であり、従弟に当たる人物。
このドラマではあたかも[曹操]の弟のようですが、
血縁関係のない従弟になります。
この戦いでは敗戦、また血気盛んな性格で、
[曹操]にいつも諌められているシーンがあります。
しかしながら、『南郡の戦い』『樊城の戦い』などでも守備を任される事になり、
これらの戦いで、長丁場になりながらも持ちこたえ、
結果的に『曹魏』の領土を守る、という大切な働きをしています。
彼の活躍は、『新野の戦い』に終わらず、
最終的に、大将軍・大司馬になっていることからも、
これからの活躍こそ期待できる将軍です。
その活躍は、[張遼]以上のものであるという人もいるのですが、
それも誇張では無いと言えます。
![]() |