黄蓋 公覆


名:黄蓋(こうがい)
字:公覆(こうふく)
-Huang Gai-

所属:孫堅軍→孫策軍→孫権軍
出生:荊州零陵郡泉陵県(湖南省永州市)
生年:不明
没年:215年(建安19年)?
享年:不明


-伝-
-伝-
『三国志』『呉書』
巻55『程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁傳』[黄蓋]傳


-血縁関係-

『真・三國無双』

CV:稲田徹
二つ名は、「練達の宿将」
「孫堅」が挙兵した時からの宿将。
そして、老将として登場する彼。
『赤壁の戦い』での武勇など、
活躍の場は様々に用意されています。
『三国志大戦』

『赤壁の戦い』や長く仕えたという武勇から、
猛将としてのイメージが強い彼。
非常に強い印象で登場します。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:小山武宏
「孫堅」の時代から仕え、若い「孫策」「孫権」を、
支えてきたという設定にて登場。
『赤壁の戦い』でも活躍を見せ、威厳ある姿を見せてくれます。



「黄蓋」の先祖は一族とともに《零陵》へとわたってきた者たち。

彼は元々は郡の役人でしたが、「孫堅」が挙兵をするとこれに従って、

反乱や『反董卓連合』に参加をしました。


彼の名前がはっきりと出てきたのは、

「孫堅」の死後、「孫策」の《江東》制圧の時代から、

「劉表」「黄祖」を征伐した時に、

「呂範」「程普」「孫権」「韓当」と並び、「黄蓋」の名前が出てきます。

しかし武勇のあった「孫策」が早世してしまうと、

跡を継いだ「孫権」に仕え、まだ若い彼を支え続けました。


「黄蓋」は自ら舞台を率いて、各地の反乱を鎮圧していき、

《丹陽》の“都尉”にまでなります。


やがて208年に『曹操軍』が攻めてきて『赤壁の戦い』が起こります。

「黄蓋」は「周瑜」にわざと自分を鞭で打たせ、

それを恨んで『曹操軍』に寝返ったと偽り、投降の船で突撃、

大船団を燃やし尽くすという、“苦肉の計”を行いました。

この作戦は成功し、『曹操軍』は撤退します。


「黄蓋」はこの時、《長江》に落ちてしまって、命からがらという状況。

何とか助けられ、九死に一生を得ました。

これが「黄蓋」の最大の活躍になります。


この後も反乱鎮圧を続け、『孫権軍』の中で出世をしていきますが、

さすがに高齢でもあったのか、病に伏せるようになり、

215年にはすでに死去してしまったことが分かります。


そんな「黄蓋」の人柄も伝えられていて、

役人としては、厳格であったそうですが、強きを抑えて、弱きを助けるという統治をし、

風貌は厳格ではありましたが、兵卒には優しく接したそうです。


しかしながら『孫呉』三代に仕え、彼らのために尽くした姿は、

『三国志』でも人気のようです。

特に『赤壁の戦い』は彼の最大の活躍ですね。

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周泰 幼平
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