「黄蓋」の先祖は一族とともに《零陵》へとわたってきた者たち。
彼は元々は郡の役人でしたが、「孫堅」が挙兵をするとこれに従って、
反乱や『反董卓連合』に参加をしました。
彼の名前がはっきりと出てきたのは、
「孫堅」の死後、「孫策」の《江東》制圧の時代から、
「劉表」「黄祖」を征伐した時に、
「呂範」「程普」「孫権」「韓当」と並び、「黄蓋」の名前が出てきます。
しかし武勇のあった「孫策」が早世してしまうと、
跡を継いだ「孫権」に仕え、まだ若い彼を支え続けました。
「黄蓋」は自ら舞台を率いて、各地の反乱を鎮圧していき、
《丹陽》の“都尉”にまでなります。
やがて208年に『曹操軍』が攻めてきて『赤壁の戦い』が起こります。
「黄蓋」は「周瑜」にわざと自分を鞭で打たせ、
それを恨んで『曹操軍』に寝返ったと偽り、投降の船で突撃、
大船団を燃やし尽くすという、“苦肉の計”を行いました。
この作戦は成功し、『曹操軍』は撤退します。
「黄蓋」はこの時、《長江》に落ちてしまって、命からがらという状況。
何とか助けられ、九死に一生を得ました。
これが「黄蓋」の最大の活躍になります。
この後も反乱鎮圧を続け、『孫権軍』の中で出世をしていきますが、
さすがに高齢でもあったのか、病に伏せるようになり、
215年にはすでに死去してしまったことが分かります。
そんな「黄蓋」の人柄も伝えられていて、
役人としては、厳格であったそうですが、強きを抑えて、弱きを助けるという統治をし、
風貌は厳格ではありましたが、兵卒には優しく接したそうです。
しかしながら『孫呉』三代に仕え、彼らのために尽くした姿は、
『三国志』でも人気のようです。
特に『赤壁の戦い』は彼の最大の活躍ですね。
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