「孫策」に仕えて側近となった武将として知られ、
兄よりもむしろ弟の「孫権」に対し身を挺して『山越』からかばった武勇が知られ、
弟の「孫権」から重用されていた武将です。
彼は全身に12箇所もの傷を負いながら、身を挺して、
『山越』からかばい、これは「孫策」からも感謝されました。
「孫権」の時代、『赤壁の戦い』において、「周瑜」などに従い、
「曹操」と対峙、「曹仁」などの攻撃も防ぐなどの活躍を見せます。
そうした功績から、《濡須》の督に命じられた彼でしたが、
「徐盛」「朱然」といった武将達は「周泰」の指示には従わず、
しかし「孫権」は宴の席で、「周泰」の服を脱がせ、
自分を守るために身を挺した傷の由来を一つ一つ説明し、
これを涙ながらに語ったのだそうです。
これから、「朱然」らは「周泰」に従うようになったのだとか。
やがて「劉備」との対立が深まる「孫権」ですが、
「周泰」は“漢中太守”に任命されます。
その後、黄武の年号(222年〜229年)頃になくなったのだとか。
子は「周邵」や「周承」などがいます。
小説『三国志演義』では、水賊であったという話がありますが、
こちらは定かではないようです。
しかし後の創作の物語では、元海賊として描かれることが多いようですね。
|