『三国志演義』において、[劉備]と共に非常に活躍した、
それこそ神とも言われるほどの人物として知られています。
元々、[劉備]と同郷の人物でしたが、『黄巾の乱』の折、
義勇兵として、[劉備]、[張飛]とともに、義兄弟の契りを交わし、
以後、死地を共に歩んでいきます。
やがて[劉備]は《徐州》を得るものの[呂布]に裏切られ、
200年、[曹操]がその《徐州》を奪い、[劉備]を徹底的に攻め、
その折に、[関羽]は[曹操]に捕らえられますが、[関羽]を高く買っていた、
[曹操]によって、手厚く歓迎し、偏将軍に任じられます。
彼は[曹操]と[袁紹]の激しい戦い『官渡の戦い』で、猛将[顔良]を討ち取るなど、
[曹操]にますます気に入られていきます。
しかしながら、[関羽]は[劉備]への恩義を忘れず、
しかし[曹操]への恩義も忘れずに、[劉備]の元へと戻りました。
この時の伝説は、『関羽千里行』としても知られています。
この後、[関羽]は、[諸葛亮]も得た[劉備]とともにしていきます。
[劉表]の元に身を寄せていた[劉備]が攻められた後、
[孫権]と同盟を組み、『赤壁の戦い』でどのような戦いをしたのかは、
正史では分かっていない点が多いのですが、
その後、[劉備]が《益州》という土地をようやく手に入れた後、
[関羽]は[諸葛亮]と共に《荊州》の守備を任され、
ここで[曹操]だけではなく、[孫権]との睨み合いが起こる事になりました。
《荊州》をめぐって、[関羽]と『孫権』の間に幾つか戦いが起こり、
結局のところ『荊州』を半々にしています。
[孫権]はこの頃、[関羽]の娘、後に付けられた名では[関銀屏]と、
[孫権]の子と婚姻を結ばせようとしますが、これは[関羽]に一蹴されてしまうのでした。
[関羽]を、『劉備勢力』をいつまで経っても放っておけない[孫権]、
さらには[曹操]にとっては、《荊州》から上がってきて、
《樊城》の[曹仁]を攻めてくる危険な存在となっていました。
水攻めなどにより、
勇将[ホウ徳]まで打ち倒され、3万人の兵が[関羽]に降伏。
[曹操]も焦るものの、ここで動いていたのが、彼の配下になっていた[司馬懿]でした。
[関羽]を、『曹操軍』『孫権軍』で挟み撃ちにする計画だったのです。
[関羽]は油断をしてはいませんでしたが、
『孫権軍』の[呂蒙]、[陸遜]の策にはまってしまい、
『孫権軍』の逆襲にあってしまって、次々と敗走。
激しい追撃戦の後、[関羽]は降伏を受けるふりをして逃走するものの、
息子[関平]とともに、219年12月、捕虜となって処断されるのでした。
そののち、[関羽]の首は[曹操]の元に送られて、[曹操]は手厚く彼を葬りました。
一方、義兄弟を殺害され、更に続けざまに、[張飛]も失った[劉備]は、
あまりの怒りに『呉』に『夷陵の戦い』を起こすも大敗。
『蜀』の衰退はここから始まったとされ、
[関羽]が討たれたことが、『蜀』の滅亡の遠縁とも言えます。
彼の子孫は残っており、[関平]以外にも、後に『蜀』で活躍する[関興]、
架空の人物ですが、三男[関策]、三女[関銀屏]などが知られています。
武芸に優れていたという[関羽]は“青龍偃月刀”を使い、
天下無双だったといいますが、
文武両道の人物で、発足当初の『劉備軍』ではいわゆる、会計を担当していました。
故に、本国中国ではむしろ商業の神とされています。
そんな、神様扱いの[関羽]ですが、欠点もありました。
それが、自尊心の高さです。
自信過剰な上、文官などを見下していたとも言われています。
『三国志演義』では、武勇伝が非常に評価されているものの、
処断された後、その実行者の[呂蒙]を祟りで殺害した。
(事実、[呂蒙]は[関羽]の死後、すぐに病死しています)
という、現代の価値として、善人かどうか疑わしいところもあるのです。
しかしこのように、様々な描かれ方がされつつも、
髭が長く武勇に優れるという一定の人物像を持っている点で、
『三国志』の物語に絶対不可欠の人物です。
神様は言い過ぎかもしれませんが、『ドラマ三国志』でも、
武力に優れながらも、傲慢な人物というのは、割りと当たっているかもしれません。
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