『三国志』の主人公である[劉備]と義兄弟の契りを交わし、
その最後まで彼とともにあった人物です。
[劉備]、[関羽]に比べますと、抜けたところや失敗も多かったそうですが、
そうしたところがまた人間的で、
一般庶民には非常に受けが良かったと良います。
義理人情に熱い人物と言えましょうか。
○来歴
元々[張飛]は肉屋だったとも言われていますが、
平和な世を乱す『黄巾の乱』で、[劉備]は義勇兵を集めており、
彼は[関羽]と共にその徒党に加わる事になりました。
この頃、“桃園の誓い”で義兄弟の契りを交わしていると言われています。
[劉備]はやがて[公孫サン]に取り立てられ、[張飛]も[関羽]と共に、
一軍を率いる将となりました。
●《徐州》から流浪の身へ
194年〜208年
[劉備]が身を寄せていた《徐州》で、[陶謙]から位を得て牧となっていたころ、
196年、[張飛]は本拠地、《下ヒ》の留守を任されていたものの、
この時、どうやら酔っ払った勢いで失敗し[呂布]に城を乗っ取られてしまいます。
一時は主[劉備]と[呂布]は和睦するものの、
やがて対立を起こし、[曹操]と共に[呂布]を討つのでした。
この後に[張飛]は[曹操]から“中郎将”に任じられるも、
[劉備]は[曹操]に背き、[袁紹][劉表]に身を寄せ、[張飛]も付き従います。
この頃、[夏侯覇]の従妹を妾としているそうです。
●『長坂の戦い』での活躍
208年
《荊州》牧の[劉表]が死去し、支えがなくなり、[曹操]から追われる身となった、
[劉備]の殿を務めたのが、[張飛]で、
彼は僅かな数の部下とともに《長坂》の橋を切り落とし、
大喝をすることで、『曹操軍』の進軍を遅らせ、[劉備]達は逃げ切ることに成功します。
『赤壁の戦い』での直接の活躍はありませんでしたが、
その後の《荊州》攻略で、[張飛]は、“宜都太守・征虜将軍”となります。
そして《南郡》を治めることに鳴るのでした。
●『劉備軍』の主将として
211年〜219年
211年からの[劉備]の《益州》攻略では、[張飛]は『劉璋軍』全ての戦いに勝利し、
《成都》に入城しました。
219年には[劉備]が《漢中》を手中に収めて、“右将軍・仮節”にもなりますが、
破竹の勢いの『劉備軍』にも陰りが訪れます。
●その最期
219年〜211年
危険視された[張飛]の義兄弟、[関羽]が、『曹操軍』と『孫権軍』の連合により討たれ、
[劉備]は自ら皇帝に即位して、『蜀』を建国、
『呉』に侵攻しようとします。
この時[張飛]は“車騎将軍兼司隷校尉”にまでなるのですが、
侵攻の準備の最中の6月、かねてから無理難題を押し付けられるなど、
[張飛]に恨みを持っていた、[張達][范彊]により暗殺されてしまいます。
これに対して、[劉備]は、烈火のごとく激怒し、『呉』を滅ぼさんとばかりの勢いでしたが、
『夷陵の戦い』により完敗するのでした―。
彼の跡は、長男[張苞]が短命であったため、[張紹]が継いでいます。
○人柄
[張飛]の武勇は[関羽]に次ぐほどと言われており、
天下に広く評価をされていました。
彼は知識人には紳士的に振舞っていたと言いますが、
身分の低いものや部下には厳罰をし、当たり散らしたりなど、
恨みを買うことも多く、ついにはそれが自分の首を絞めてしまいました。
『三国志演義』では、身長八尺もあり、一騎打ちの名手とも言われ、
[夏侯惇]や[許チョ」などとも一騎打ちをしていると言われています。
そしてやはり欠点は酒に溺れやすいところであり、
泥酔して最後の最後まで失敗を続けているため、
大きな欠点を持った将軍だった事は否めないでしょう。
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