張飛 翼徳


名:張飛(ちょうひ)
字:翼徳(よくとく)
-Zhang Fei-

諡号:桓侯

出生:幽州タク郡
生年:不明
没年:221年(建安26年)
享年不明


-伝-
『三国志 蜀書』
巻36『関張馬黄趙傳』[張飛]伝


-血縁関係-

義兄弟:劉備、関羽

妻:[夏侯氏](夏侯覇の従妹)
長男:[張苞]、次男:[張紹]
娘:[敬哀皇后張氏]([劉禅]の皇后)、[張皇后]


『真・三國無双』

CV:掛川裕彦
一般伝承にも伝わるような[張飛]像を、
絵に描いたのような姿で、
豪胆の髭の姿、そして戦い方の彼。
しかしながら仁義に熱いという熱血漢として描かれます。
娘として[星彩]、息子として[張苞]も登場するようになりました。


『三国志大戦』

『三国志』には登場してこそ成り立つ人物。
ただ英雄というよりは、強そうなものの、どこか凶暴そうな印象もある。というのが、[張飛]像にありますね。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

一般伝承で親しみのある姿の[張飛]は、
もちろん本国中国のドラマでも、
その通りの姿で登場し、豪胆な勇将として描かれます。
ただ酒に溺れて失敗したり、
感情に任せて行動するなど、マイナス面もかなり描かれています。
人間離れした武勇がある者達の中、
人間的な人物であるのも確かです。


『三国志』の主人公である[劉備]と義兄弟の契りを交わし、

その最後まで彼とともにあった人物です。

[劉備]、[関羽]に比べますと、抜けたところや失敗も多かったそうですが、

そうしたところがまた人間的で、

一般庶民には非常に受けが良かったと良います。

義理人情に熱い人物と言えましょうか。


○来歴

元々[張飛]は肉屋だったとも言われていますが、

平和な世を乱す『黄巾の乱』で、[劉備]は義勇兵を集めており、

彼は[関羽]と共にその徒党に加わる事になりました。

この頃、“桃園の誓い”で義兄弟の契りを交わしていると言われています。

[劉備]はやがて[公孫サン]に取り立てられ、[張飛]も[関羽]と共に、

一軍を率いる将となりました。


●《徐州》から流浪の身へ
194年〜208年

[劉備]が身を寄せていた《徐州》で、[陶謙]から位を得て牧となっていたころ、

196年、[張飛]は本拠地、《下ヒ》の留守を任されていたものの、

この時、どうやら酔っ払った勢いで失敗し[呂布]に城を乗っ取られてしまいます。

一時は主[劉備]と[呂布]は和睦するものの、

やがて対立を起こし、[曹操]と共に[呂布]を討つのでした。

この後に[張飛]は[曹操]から“中郎将”に任じられるも、

[劉備]は[曹操]に背き、[袁紹][劉表]に身を寄せ、[張飛]も付き従います。

この頃、[夏侯覇]の従妹を妾としているそうです。


●『長坂の戦い』での活躍
208年

《荊州》牧の[劉表]が死去し、支えがなくなり、[曹操]から追われる身となった、

[劉備]の殿を務めたのが、[張飛]で、

彼は僅かな数の部下とともに《長坂》の橋を切り落とし、

大喝をすることで、『曹操軍』の進軍を遅らせ、[劉備]達は逃げ切ることに成功します。


『赤壁の戦い』での直接の活躍はありませんでしたが、

その後の《荊州》攻略で、[張飛]は、“宜都太守・征虜将軍”となります。

そして《南郡》を治めることに鳴るのでした。


●『劉備軍』の主将として
211年〜219年

211年からの[劉備]の《益州》攻略では、[張飛]は『劉璋軍』全ての戦いに勝利し、

《成都》に入城しました。

219年には[劉備]が《漢中》を手中に収めて、“右将軍・仮節”にもなりますが、

破竹の勢いの『劉備軍』にも陰りが訪れます。


●その最期
219年〜211年

危険視された[張飛]の義兄弟、[関羽]が、『曹操軍』と『孫権軍』の連合により討たれ、

[劉備]は自ら皇帝に即位して、『蜀』を建国、

『呉』に侵攻しようとします。

この時[張飛]は“車騎将軍兼司隷校尉”にまでなるのですが、

侵攻の準備の最中の6月、かねてから無理難題を押し付けられるなど、

[張飛]に恨みを持っていた、[張達][范彊]により暗殺されてしまいます。


これに対して、[劉備]は、烈火のごとく激怒し、『呉』を滅ぼさんとばかりの勢いでしたが、

『夷陵の戦い』により完敗するのでした―。


彼の跡は、長男[張苞]が短命であったため、[張紹]が継いでいます。


○人柄

[張飛]の武勇は[関羽]に次ぐほどと言われており、

天下に広く評価をされていました。

彼は知識人には紳士的に振舞っていたと言いますが、

身分の低いものや部下には厳罰をし、当たり散らしたりなど、

恨みを買うことも多く、ついにはそれが自分の首を絞めてしまいました。


『三国志演義』では、身長八尺もあり、一騎打ちの名手とも言われ、

[夏侯惇]や[許チョ」などとも一騎打ちをしていると言われています。


そしてやはり欠点は酒に溺れやすいところであり、

泥酔して最後の最後まで失敗を続けているため、

大きな欠点を持った将軍だった事は否めないでしょう。


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諸葛亮 孔明
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