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劉備 玄徳


名:劉備(りゅうび)
字:玄徳(げんとく)
-Liu Bei-

諡号:大皇帝
廟号:太祖

所属:劉備軍→蜀国(漢中王→皇帝)
出生:タク郡タク県
生年:161年(延熹4年)
没年:223年6月10日(延熹4年)
享年63歳


-伝-
『三国志 蜀書』
巻32『先主傳』[劉備]伝


-血縁関係-

義弟:[関羽][張飛]

妻:[穆皇后][甘夫人][糜夫人][孫夫人]

子:[劉禅][劉永][劉理][劉封](養子) 他娘二人

孫:[劉叡][劉瑤][劉j][劉サン][劉ェ][劉恂]

『真・三國無双』

CV:遠藤守或
二つ名は、「大徳」などが知られ、
絵に描いたような主人公として登場し、
理想と現実の間で苦悩する者として登場します。
理想主義者的なところもありますが、
三国志の登場人物として、とても人間的であります。



『三国志大戦』

やはり、「蜀」では主人公格な存在。
主人公ということもあって、イケメンで登場したりもします。
まあ、それは若いころの姿なのでしょう。

どういうわけか女性の姿で登場したりも…。

ドラマ『三国志 Three Kingdoms』

吹替:家中宏
もちろん終盤近くまで主人公です。
しかしながら、理想に走り過ぎるあまり、
自分の首を絞めてしまう理想主義者といった姿も描かれ、
現実主義の「曹操」とは全く違う主人公の一人です。




『三国志』『三国志演義』などの主人公として知られ、

理想と現実の間に揺れ、最後まで『後漢王朝』の再興を目指した英雄です。

しかしながら、理想主義が過ぎたのか、それが果たされることはありませんでした。


さて、彼は『前漢』の中山靖王劉勝の末裔と言われています。

とはいえ、実はそれは本当かどうかは不明なのですが、

「劉備」はその信念のもとに生きていきました。


時は『黄巾の乱』の時代、意気投合した「関羽」「張飛」と“義兄弟の契り”を交わし、

義勇軍を結成して、乱鎮圧で功績を上げました。

その後、各地を転戦して、「公孫賛」「袁紹」らの下で戦うものの、

彼が一定の本拠地を定めることはできず、

更に、一時期は《徐州》を治める立場になるものの、

それを「呂布」に乗っ取られたり、「曹操」に危険視をされ、

命からがら「劉表」の元に身を寄せるなど、

苦境の主人公を絵に描いたような経歴を続けていきます。


しかしながら、元は『曹操軍』側であった「徐庶」に、

かの有名な「諸葛亮 孔明」を紹介され、

彼に“天下三分の計”を説かれました。


後、彼は『呉』の皇帝になる「孫権」と連合をして、

『赤壁の戦い』で『曹操軍』を壊滅させ、

ここから勢いをつけていきます。


彼は『後漢王朝』再興のために、「劉璋」などから《西蜀》の地を奪い、

“漢中王”を称して《成都》を本拠地として、

「曹操」や「孫権」に対抗していきました。


彼に暗雲が立ち込めるのは、「関羽」「張飛」が相次いで、

「劉備」らの破竹の勢いを危険視した『呉』によって殺害されてしまうところから。

弔い合戦として行った『夷陵の戦い』は「陸遜」によって、

完膚なきまでに大敗し、

「劉備」は「諸葛亮」の助けとともに《白帝城》へと逃げ延び、

そこですべてを「諸葛亮」、そして後継者として「劉禅」に託し死去するのでした。


『三国志』の物語では序盤〜中盤に至るまで主人公として、

現代にも通じる主人公像を描いていきますが、

歴史的に、『後漢王朝』の再興が理想だったのか、

それは難しい点があり、

無理な理想を追求し過ぎた理想家とも取れます。


彼も、完璧なまでに高潔だったとは言いがたく、

《成都》の地を得るべく同族を倒したりなど、

また、最終的には、義兄弟の弔い合戦で『蜀』の首を絞めてしまうなど、

マイナス面も多いのです。

しかしながらそれが、冷酷すぎる人々よりも、より人間らしいと言えるのかもしれません。


光景は暗愚として有名になってしまった「劉禅」が継ぎますが、

理想主義を通した「劉備」の志を継ぐには、

さすがに当時17歳だった「劉禅」には辛すぎたのでしょう。

『蜀』が30年以上続いただけでも立派だと思います。


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関羽 雲長
関羽 雲長