『三国志』『三国志演義』などの主人公として知られ、
理想と現実の間に揺れ、最後まで『後漢王朝』の再興を目指した英雄です。
しかしながら、理想主義が過ぎたのか、それが果たされることはありませんでした。
さて、彼は『前漢』の中山靖王劉勝の末裔と言われています。
とはいえ、実はそれは本当かどうかは不明なのですが、
「劉備」はその信念のもとに生きていきました。
時は『黄巾の乱』の時代、意気投合した「関羽」「張飛」と“義兄弟の契り”を交わし、
義勇軍を結成して、乱鎮圧で功績を上げました。
その後、各地を転戦して、「公孫賛」「袁紹」らの下で戦うものの、
彼が一定の本拠地を定めることはできず、
更に、一時期は《徐州》を治める立場になるものの、
それを「呂布」に乗っ取られたり、「曹操」に危険視をされ、
命からがら「劉表」の元に身を寄せるなど、
苦境の主人公を絵に描いたような経歴を続けていきます。
しかしながら、元は『曹操軍』側であった「徐庶」に、
かの有名な「諸葛亮 孔明」を紹介され、
彼に“天下三分の計”を説かれました。
後、彼は『呉』の皇帝になる「孫権」と連合をして、
『赤壁の戦い』で『曹操軍』を壊滅させ、
ここから勢いをつけていきます。
彼は『後漢王朝』再興のために、「劉璋」などから《西蜀》の地を奪い、
“漢中王”を称して《成都》を本拠地として、
「曹操」や「孫権」に対抗していきました。
彼に暗雲が立ち込めるのは、「関羽」「張飛」が相次いで、
「劉備」らの破竹の勢いを危険視した『呉』によって殺害されてしまうところから。
弔い合戦として行った『夷陵の戦い』は「陸遜」によって、
完膚なきまでに大敗し、
「劉備」は「諸葛亮」の助けとともに《白帝城》へと逃げ延び、
そこですべてを「諸葛亮」、そして後継者として「劉禅」に託し死去するのでした。
『三国志』の物語では序盤〜中盤に至るまで主人公として、
現代にも通じる主人公像を描いていきますが、
歴史的に、『後漢王朝』の再興が理想だったのか、
それは難しい点があり、
無理な理想を追求し過ぎた理想家とも取れます。
彼も、完璧なまでに高潔だったとは言いがたく、
《成都》の地を得るべく同族を倒したりなど、
また、最終的には、義兄弟の弔い合戦で『蜀』の首を絞めてしまうなど、
マイナス面も多いのです。
しかしながらそれが、冷酷すぎる人々よりも、より人間らしいと言えるのかもしれません。
光景は暗愚として有名になってしまった「劉禅」が継ぎますが、
理想主義を通した「劉備」の志を継ぐには、
さすがに当時17歳だった「劉禅」には辛すぎたのでしょう。
『蜀』が30年以上続いただけでも立派だと思います。
|