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西暦200年 『官渡の戦い』

↑前の時代西暦198年 『下ヒの戦い』



「《黄河》を隔てた両雄」

[袁紹]は[公孫サン]を倒すことによって《河北》を手にしており、
名門に家柄とともに天下の最大勢力でした。
一方で[曹操]は、天子(皇帝)を河南に迎えており、
大義名分とともに地盤を固めていました。



「[関羽]、[曹操]に下る」

大勢力となった[曹操]と[袁紹]。
その両者がいずれ激突することは明らかでした。
[袁紹]は、その巨大な勢力を手に、南征を開始します。

しかし対する[曹操]はそれに慌てず、
自分のもとを去っていった[劉備]に壊滅的打撃を与え、
勇将[関羽]を客将として迎え入れるのです。



「『白馬の戦い』」

西暦200、ついに[袁紹]と[曹操]の間で戦が起こります。
[曹操]は敵の大軍を陽動して、
《白馬》の吸収を成功させました。

そして単騎で突入した[関羽]が、
勇将[顔良]を斬り、[曹操]への義理を果たすのです。


「『延津の戦い』」

続く『延津の戦い』では、輸送部隊を囮として、
『袁紹軍』を誘い出すことによって、
物資に群がって隊列の乱れたところを打ち破ります。
[関羽]は、今度は猛将[文醜]を討ち取り、
この戦いも『曹操軍』は勝利をします。


「『関羽千里行』」

この戦いの後、[関羽]は[劉備]の消息を知ることになり、
[曹操]の陣営を去る決断をするのでした。

5つの関を抜いて、6人の将達を破った[関羽]に、[夏侯惇]が迫りました。
しかしながら[曹操]は[関羽]の義理を認め、
義兄弟の再会となるのでした。


「『官渡の戦い』」
西暦200年

[袁紹]は、二度の敗北にもめげずに、
大軍で《官渡》に攻め寄せることになるのでした。

この威圧に圧される形で、[曹操]は《官渡城》へと籠ります。
『袁紹軍』は城壁の周りに土山を築いて、
更には櫓を建てて場内に矢を射掛けるのでした。


「投石車の猛威」

そんな『袁紹軍』に対して[曹操]は、投石車を使って、
櫓を破壊するという攻撃を見せました。
『袁紹軍』はその存在に恐れを抱き、
転じて坑道を掘り進むという作戦に変更します。
しかしながら、これは急造の塹壕によって阻まれてしまいました。


「《烏巣》への夜襲」

戦いが長期化し、兵糧も乏しくなった中、両軍には寝返る者達が増え、
『袁紹軍』では、内部の不和もあったせいで、
幕僚、[許攸]が陣を去ります。
そして彼は重要な情報を持ち、[曹操]を訪れました。


「『袁紹軍』、潰走」
 
『袁紹軍』の兵糧は《烏巣》に集結していると聞いた[曹操]は、
直ちにこの地へと夜襲をかけるのでした。

『袁紹軍』を装って警戒網を突破し、
手薄な守備隊を打ち破り、《烏巣》の兵糧は、
全てが焼き払われるのでした。


「《中原》の覇者、[曹操]」

思わぬ奇襲攻撃に『袁紹軍』は浮き足立ってしまい、
完全に崩れて敗走していきました。
敗れた[袁紹]は、《黄河》をわたり北へと逃れるものの、
数年後に病死します。

こうして[曹操]は《中原》の覇者となるのでした―。


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208年 『長坂の戦い』 
西暦208年 『長坂の戦い』
西暦208年 『長坂の戦い』


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