西暦198年 『下ヒの戦い』

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「《長安》の政変」
西暦192年

[董卓]は《長安》に逃れ、帝位につこうとしますが、
[王允]と共謀した[呂布]によって討たれるのでした。

しかしその後、[董卓]の元部下たちが逆襲を行い、
今度は[王允]が討たれるのです。
[呂布]はやむなく《長安》を去りました。



「[呂布]のその後」

行所がなく、《エン州》に入っていた[呂布]は、
[曹操]と一進一退の攻防を繰り広げていましたが、
敗北して《徐州》へと流れていきます。
そこには、[陶謙]に見込まれて《徐州》を譲られていた、
[劉備]が滞在していました。


[劉備]乗っ取られる

[呂布]は[劉備]を弟と呼んで居座り、
留守の間に、《下ヒ城》を奪ってしまいます。
やむを得ず[呂布]の下についた[劉備]ですが、
[張飛]が原因で[呂布]と決裂して、
困った[劉備]は[曹操]を頼ることになります。


奸雄[曹操]と英雄[劉備]
 
[曹操]は、英雄用いるべしとして[劉備]を厚遇しました。
四方に敵がいる[曹操]にとって、
気がかりなのは[呂布]でした。

そこに[呂布]を討とうと[劉備]の元に使者を送りますが、
事は[呂布]に漏れてしまいました。


[呂布]との対決

怒った[呂布]は[劉備]を攻めます。
『曹操軍』からは[夏侯惇]が[劉備]の援軍に駆けつけますが、
左目に矢を受けて失明し、退却してしまいます。
[劉備]らも次々に打ち破られ、
最後には[曹操]が乗り出しました。


《下ヒ城》の包囲網
西暦198年

198年、『曹操軍』は《下ヒ》を包囲しました。
そして、軍師[郭嘉]らの提案を採用して、2つの河を決壊させ、
水攻めを行うのでした。
多数の泥水が《下ヒ》の城に押し寄せ、
『呂布軍』には動揺が広がりました。


[呂布]、窮地を自ら招く

打つ手がなくなった[呂布]は酒に溺れていきます。
思い直し、禁酒令を出すものの、[呂布]に酒を献上した者がおり、
それをきつく罰してしまったため、
彼は部下達から反感を買ってしまいます。


虎狼、捕縛される

[呂布]に離反をした将が、赤兎馬を盗んで、
それを[曹操]に献上し、『曹操軍』を城内へと手引きしました。
[呂布]は酒によって寝ていたところを、
厳重に縛り上げられ、[曹操]に突き出されてしまうのです。


猛将、[呂布]の最期

[曹操]と対面した[呂布]は、共に天下を取ろうと、のうのうと持ちかけます。
少し思案した[曹操]ですが、[劉備]は[董卓]の例を挙げて、
彼に警告しました。

[呂布]は[劉備]に対して激高しますが、
それは結局のところ悪あがきとなってしまいました―。


[呂布]を倒した後の動き

[呂布]は処断され、
[曹操]は[劉備]を伴って《許都》へと帰還をしようとしますが、
[袁術]の討伐を機として、[曹操]の監視下から脱して、
《徐州》で独立をするのでした。


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