[曹操]にとっては初めての息子なので、長男であるのですが、
次男[曹丕]が皇帝にもなり、また、異母兄弟であるため、
[曹丕]の方が長男となることも多いようです。
○来歴
[曹操]の当初の正室であった、[劉夫人]の長男でしたが、
彼女が早世してしまったため、[丁夫人]に育てられました。
詳しくどのように育ったかは伝わっていません。
●『宛城の戦い』で
197年
父[曹操]は、《宛城》において[張繍]の降伏を受け入れるも、
彼は[張済]の未亡人と密通しようとしており、
これが[張繍]の耳に入っていたことが分かり、[曹操]は逆に返り討ちにしようとしたものの、
やはり先手を取られて、《宛城》の[曹操]を襲撃。
この奇襲攻撃に[曹操]も死地に陥りますが、
ここで息子[曹昂]は父を無事に逃がすために、自らの馬を差し出し、
そして彼自身は『張繍軍』の前に散るのでした。
[曹昂]の死を知った育ての母[丁夫人]は、[曹操]を恨んで、
彼自身も相当に謝罪したそうですが、二度と[曹操]の元には戻りませんでした。
人柄などについては詳しく伝わっていません。
異母弟[曹丕]に後に言わせれば、弟にして天才的だった[曹沖]が生きていたら、
自分は父の後継者になれなかったが、兄[曹昂]であったら、
彼に限界が会っただろうと言った。と言われています。
[曹昂]と[曹丕]は面識がある。(おそらく歳は離れていた。[曹昂]死去時197年で[曹丕]は10歳のため)
のですが、そこまで[曹昂]は才能あふれていたわけではない、
という事でしょうか。
ただ、父をかばった際の彼の武勇伝は現代にも語り継がれています。
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