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第七部「危急存亡」 第八十六集
時代背景:西暦228年(『魏』太和2年・『呉』黄武7年・『蜀』建興6年)
『街亭の戦い』
※物語上は、西暦227年とされています。
破竹の快進撃を続ける[諸葛亮]率いる『蜀軍』。
更に『魏軍』の[孟達]を寝返らせることにも成功します。
一方、『魏軍』を率いることになった[司馬懿]。
彼は、陣営で[申儀]という旧知の仲の人物と出会います。
そして[司馬懿]は、彼から[孟達]の裏切りを知らされます。
この裏切りを見過ごす訳にはいかない[司馬懿]は、
彼のいる《新城》へと向かいます。
そこで[孟達]を捕らえ、打ち倒した[司馬懿]は、
その首を皇帝[曹叡]に捧げ、気に入られることとなるのでした。
実際は、[曹叡]から命令されてから動いたと言われています。
そして気に入られた[司馬懿]は、[諸葛亮]討伐を命じられる事になります。
すでに、[夏侯楙][曹休][曹真]が敗北している中、
油断はできない[司馬懿]。
兵糧を『蜀』から持ってこなければ戦えない事に目をつけた、
[司馬懿]や配下の[郭淮]達は、《街亭》を兵糧攻めにすることを策します。
これに《街亭》に赴いたのは、
『魏軍』の五大将軍でまだ生き残っていた、[張?]でした。
《街亭》は小さい要所でしたが、非常に重要な拠点で、
城はなく、攻めやすいというところでした。
これに勇んで自分が守りに行くと言い出したのが、
[諸葛亮]の弟子の[馬謖]でした。
[王平]を副将とさせ、《街亭》の守りへとつかせます。
しかし不安でならない[諸葛亮]が予感するものとは―?
《街亭》にやってきた[馬謖]は、守るために山に登る決意をします。
孫子の兵法を語って、山に布陣する利点を明かしますが、
それは穴だらけの策でした。
[諸葛亮]の元を離れたせいか、妙に自信過剰になった[馬謖]により、
山に陣がはられるものとなったのでした。
《街亭》が孤山であり、更に川から遠いという事もあり、
そんなところに陣を張ったことさえ疑おうとする[司馬懿]ですが、
あっという間に包囲網を敷いてしまいます。
何故か、『赤壁の戦い』とくらべて、10万の軍に囲まれても、
大した事はない言い切ってしまう[馬謖]。
場所によりけりで、しかも10万もの軍勢は十分すぎること多いのですが…。
温厚な[諸葛亮]も、あまりに愚策に、弟子に対して、
「能なしだ」と激怒してしまいます。
最悪の状況になったことを知った[諸葛亮]は、《漢中》へ、
退却をする事を決意します。
“北伐”を成し遂げられなくなってしまうほどに深刻なこの状況。
もはや逃げ場もなくなった[馬謖]の軍は、
弱ったところを『魏軍』の総攻撃にさらされ、
順調だった『蜀軍』は壊滅的な撤退をせざるを得ないのでした。
《西城》という小城まで退却した[諸葛亮]は、
数万という軍を、千にも満たない寡兵で迎え撃たなければならなくなります。
ここで出した[諸葛亮]の策が、“空城の計”でした。
裏の裏をいくこの策は、寡兵に見せかけた城で、
そこは本当に寡兵なのですが、あまりの隙だらけさに、
伏兵があるのではないかと思わせる策でした。
注目の人物
「《街亭》の致命的な失敗」
。
注目の登場人物
[孟達]
?年〜228年(太和2年)
吹替:なし
このドラマでは顔どころか、首さえ出てこない役。
[劉備]に仕えたり、[劉備]を裏切ったり、『魏』に反逆したりなど、
色々裏切りが多い武将。
お陰で『蜀』の人物なのか、『魏』の人物かも分からないほどです。
[司馬懿]に捕らえられて当然、処断されますが、
一族まで始末されることはなく、子の[孟興]は亡命しています。
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