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第七部「危急存亡」 第八十七集
時代背景:西暦228年(『魏』太和2年・『呉』黄武7年・『蜀』建興6年)
『街亭の戦い』『石亭の戦い』
※物語上は、西暦227年とされています。
[馬謖]の失態によって、一気に危機的な状況に陥った『蜀軍』。
[諸葛亮]は大軍で待ち構えているというふりをする、
“空城の計”を使い、[司馬懿]を待ち構えます。
ここで初めて[諸葛亮]と[司馬懿]が出会います。
[司馬懿]は伏兵を警戒して撤退し、天が自分を助けたと言います。
この戦いで、『魏』の歴戦の将軍である[張?][徐晃]が負傷し撤退。
何とか[趙雲]も防衛を成功させるのですが、
果たして、大失態をした[馬謖]は―?
この戦いの敗因は完全に[馬謖]の判断にあり、
彼は自分自身を縛らせて[諸葛亮]の前で謝罪します。
もはや[馬謖]を処断する事しかできないという中、
[趙雲]らは、功績により謝罪させるように言うのですが、
[馬謖]自身の罪の意識も強く、失った兵が2万をも超えることから、
処断される事となるのでした。
[馬謖]は斬られ、[諸葛亮]は彼自身にも罪があると、
自ら丞相の職を降格する事を、[劉禅]に書状で願い出てしまいます。
この『街亭の戦い』での“北伐”の失敗で、
『蜀』の内部は混乱します。
最終的には、降格はするものの、実質的に最高位の地位である。
という[諸葛亮]の地位は変わらないのでした。
明暗分かれ、『魏』では[司馬懿]が、[曹叡]から褒め称えられますが、
[諸葛亮]を逃しており、また、様々な流言が飛び交っており、
[司馬懿]にもその風当たりは強くなっていました。
[曹叡]は軍権を取ることで、[司馬懿]への矛先をそらせようとしますが、
あくまで《洛陽》内には置き、
重要な役の時のために残しておこうとするのです。
しかし失敗続きの『曹一族』とのあまりの扱いの差に、
息子の[司馬昭]は怒り心頭でした。
[司馬懿]は何か策があるのか、そのうち、遠からず朝廷から迎えが来る。
と、そう言うのです。
そしてしばらく後、『呉』との『石亭の戦い』で[曹休]は[陸遜]の策で大敗し、
『曹一族』の軍権としての権威が失墜します。
[曹休]の失敗に、[曹叡]は自ら出兵すべきかと、[司馬懿]に相談するものの、
あくまで強敵は[諸葛亮]であり、
次は《陳倉》という小さくはあるものの、要所である地を守るよう言います。
しかし自分が功を上げられるという段階にもかかわらず、
妙に病気の振りをして、出て行かないのです。
ここで[司馬懿]が病気のふりをしていたのは、
結局功を立てても、[曹真]らのものとなり、負けても[司馬懿]の責任になると、
そこまで判断しての事だったのです。
注目の人物
「“泣いて馬謖を斬る”」
。
注目の登場人物
[馬謖 幼常]
西暦190年(初平元年)〜228年(太和2年)
吹替:横島亘
優秀な[諸葛亮]の弟子なのですが、
『街亭の戦い』の失敗が知られる事になって、
驕り高ぶって、[諸葛亮]が処断せざるを得なくさせた、
というあまり良くない役柄をさせられるのがお決まりになっている人です。
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