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第五部「奸雄終命」第六十一集
時代背景:210年(建安14年)〜212年(建安17年)
順調であるとばかりに、[馬騰]は軍を引き連れて城内に攻め込みますが、
攻めこませることが[曹操]の策略であり、
[馬騰]一派は、策略の前に打ち倒されてしまうのでした。
内通者は一味の名前を書いた自白状を書くものの、
その最後の名前に[曹丕]の名前を書き、自らは自害してしまいます。
それを[荀ケ]から知らされ[曹操]は、
自らが[曹丕]にその罪を問いただそうとします。
しかし[曹丕]は[司馬懿]に助けを求め、
[司馬懿]は、絶対に罪を認めることをせずに、
逆に[曹植]こそ黒幕であるというように指示するのでした。
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[曹操]は息子の[曹丕]を試すかのような素振りをみせ、
徹底的に彼を追い詰めるのですが、
結局は彼を認めたかのように、[曹丕]の潔白を信じるのでした。
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そしていよいよ[馬騰]が倒れた事によって、
『西涼軍』が動き出し、これに[曹操]自らが出陣して、
《潼関》での戦いへと持ち込まれる事になるのです。
このエピソードの注目点
「[馬騰]ら勢力の瓦解」
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《西涼》で大きな勢力を持っていた[馬騰]らですが、
[曹操]の策略の前に遂にその力が大きく削がれます。
これによって、父親の復讐に駆られるのは息子の[馬超]。
また新たな勢力が[曹操]の前に立ちふさがり、
脅威となっていくのです。
三国事情の複雑な事情というものは、まだまだ終わらず、
新しい様相を見せ始めてくるのでした。
そしてあたかも[曹丕]を試すかのような[曹操]の行い、
これは彼を[馬騰]らの内通者として疑うのではなく、
自分の後継者としてふさわしいかどうかを試す試練であるかのようです。
注目の人物
[馬鉄] -Ma Tie-
?〜211年(建安16年)
[馬騰]の息子。活躍といえば、[馬騰]が[曹操]に戦いを挑んで、
それが失敗して倒されたという話くらいのものでしょうか。
[馬超]にとっては兄弟に当たるために、
これは、彼にとって恨みを抱く一つの動機になるのです。
小説『三国志演義』では、[曹操]を倒そうと[馬騰]と共に、
戦いを挑もうとしますが、『曹操軍』に囲まれてしまい、
血路を見出そうとするものの、あえなく討死にしてしまうという、
最期が描かれています。
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