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第五部「奸雄終命」第六十集
時代背景:210年(建安14年)〜212年(建安17年)
[司馬懿]が[曹丕]の賓客になり、後見人となる。
その決意を固めた[司馬懿]でしたが、[曹操]も彼は、
[曹植]の賓客になることを望んでおり、
[司馬懿]は城を追われてしまうのでした。
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しかし[曹操]は完全に[司馬懿]を追い出したのではなく、
今は彼を遠ざけたというだけのようですが―。
その頃、《西涼》の[馬騰]の存在を疎ましく思い、
また『西涼軍』の勇猛盛んな騎馬部隊を脅威に思っていた[曹操]は、
[荀ケ]の策を取り入れ、
[馬騰]を前将軍に任命して、[孫権]討伐の命令を下し、
《許都》に立ち寄った所を襲うという策を立てます。
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しかし[馬騰]側もその姦計を見抜いており、
義弟の[韓遂]と結託し、逆に[曹操]を暗殺して、
《許都》をとってしまおうと目論んでいるのでした。
この堂々たる作戦に、[馬騰]の息子の[馬超]は、
少数の軍で[曹操]を騙すつもりだからと、不安がっているのですが、
果たして彼らの軍の起こそうとする変事は成功するのか。
しかし、この《許昌》内部と通じた作戦は、
内部の内通者から情報が漏れだしてしまう事になるのでした。
《西涼》で内乱が起きたという話には、
[曹操]も信憑性が薄く、腑に落ちない様子を見せ、
彼らの作戦にも疑いをかけてきます。
そして[曹操]の元へと少数でやって来る[馬騰]。
彼を丞相と言って畏まる[馬騰]ですが、
もちろんこれは彼等へと攻撃を仕掛けるための建前です。
[馬騰]らには兵糧を渡し、誠意を見せる[曹操]でしたが、
あくまで疑いをかけており、
実際、《西涼》の軍はすでに《渭水》にまでやって来ているのでした。
[曹操]の命を奪うために《丞相府》に攻めこむことは、
時が来れば達成されるはずだったのですが、
肝心の門番を開ける内通者が不貞な男であり―。
このエピソードの注目点
「《西涼》の[馬騰]の脅威」
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『西涼軍』の[馬騰]とは[曹操]にとっても脅威であり、
『赤壁の戦い』の敗戦でいつ彼が攻めてくるかと、
ひやひやしていた時もあったほどの相手です。
実際、彼らはモンゴルにほど近い血族であり、騎馬隊が非常に強く、
まともに戦っては敗退するような相手でした。
そんな[馬騰]が攻めてくる事を画策している。
[曹操]の頭痛の種となってしまうのですが、彼とも決着をつける時は迫ります。
注目の人物
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[馬騰 寿成] -Ma Teng-
?〜212年(建安17年)
吹替:佳月大人
勇猛盛んと言われた、北の《西涼》を治めていた軍閥の一派の長。
後に『蜀』の将軍となる[馬超]の父に当たる人物です。
反董卓連合軍にも参加していましたが、
その後は《西涼》で頻発する反乱の平定などに務め、
やがては[曹操]に従うようにもなりますが、
一族を引き連れて入朝したところを、
彼等を脅威と判断していた[曹操]によって暗殺されてしまったといいます。
説によれば、[馬騰]側が、都を乗っ取ろうとしていたという、
説の方が強く、そのために[曹操]に倒されてしまったという話です。
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