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第四部「荊州争奪」第五十六集
時代背景:210年(建安14年)
[周瑜]らの策から脱出しようと、[劉備]は配下の[趙雲]らと、
《孫呉》の地から脱出することを計ります。
しかしそこに追っ手がやって来て、彼等を追い詰める事になるのでした。
[趙雲]は、[諸葛亮]の授けた最後の秘策の封書を開き、
その命令通りに動きます。
[劉備]宛であったその命令書だったのか、
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馬車にいた[孫小妹](孫尚香)は、追っ手の[徐盛]と[丁奉]に、
自分達の道を開けよと命じ、彼等を言い負かしてしまいます。
こうして脱出を果たした[劉備]。
一方《荊州》では、[劉備]を救出しにいかない[諸葛亮]に、
[関羽]と[張飛]が業を煮やし、《荊州》の軍とも一色触発状態になっていました。
退路を逃れる[劉備]には[周瑜]が追いつき、
いよいよ彼を追い詰めるのですが、
[諸葛亮]は、《荊州》の軍を[黄忠]と[魏延]に動かさせており、
これが『周瑜軍』を追い払い、[劉備]を完全に逃すのです。
《南郡》での傷も悪化した[周瑜]は罵られながら、これを逃してしまいます。
しかし彼の怒りは臨界にありました。
一方、今にも『孫呉』に攻め込もうとしていた、
[関羽]と[張飛]の前に、ようやく[劉備]が帰還してきます。
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歓喜する義兄弟達でしたが、
[諸葛亮]は彼らの中に入って行けず、必要とされていないのではないか、
と思い込んでしまい、[劉備]の元を去ろうとしてしまいます。
しかし[諸葛亮]は命の恩人であり、
船で出ようとしていた所を、何としても連れ戻してくる[劉備]ら義兄弟。
とりあえず、この騒乱は一幕をつけることになりました。
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この後、[諸葛亮]は、[関羽]と[張飛]の中でも、
[関羽]が、人を馬鹿にする態度を持っており、
一領地を任されたら危険だと、[劉備]に示唆するのです。
一方、『孫呉』では[周瑜]が、[諸葛亮]に馬鹿にされ、
挙句の果てに[劉備]に逃げられたことに怒り心頭しており、
[劉備]が戻った今、《荊州》を攻めるのは大戦となってしまい、
愚の骨頂であると苦悩を漏らすのです。
主君の[孫権]は、[劉備]を攻めるのは時期尚早と言いつつも、
[劉備]を、《許昌》つまり朝廷に上奏して、
“荊州牧”にしてしまうという事を[周瑜]と計ります。
しばらくして、[劉備]の元へとその任が与えられるのでした。
“孫劉同盟”があれば、[曹操]も簡単には攻められない、
ですが、《荊州》の二郡に[周瑜]達が入る事になっており、
最終的には《荊州》の奪還に繋がるという策なのでした。
[魯粛]と話す[周瑜]は、
同盟は足がかりに過ぎず、いずれ《荊州》は取るつもりであり、
もっとも重要なのはいつ取るか、
その策のため、[劉備]に《西蜀》を取らせ、
約束通り《荊州》を返させようとします。
しかし《西蜀》を取るのは[劉備]らにとって大仕事であり、
[周瑜]は軍を貸し与える、その際、その軍を持って《荊州》を攻撃し、
[劉備]らを倒そうとするのです。
ですがこれには、穏健派の[魯粛]は、同意するものの、
賛同できぬ顔をしてしまうのでした―。
このエピソードの注目点
「《荊州》争奪への発展」
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[劉備]を取り逃したこと、《荊州》の軍が彼の手によって、
大幅に増強されている事は、[周瑜]や[孫権]にとっては、
この上なく危機感を感じる状況となりました。
もはや、同盟や和議などで済むようなことではない。
一時は[劉備]を“荊州牧”に任じるなど、彼等を敵に回すことを、
諦めたかのように思えた[孫権]陣営でしたが、
[周瑜]は、《西蜀》攻略のための援軍を、
《荊州》に攻めこませるという策を整えていたのでした―。
[魯粛]曰く、これは非常に危険な行為でもあるのです。
注目の人物
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[丁奉 承淵]
?年〜271年
歴戦の『孫呉』の武将。とはいってもこの時代にはまだ若く、
[徐盛]と共に、[周瑜]の追手として登場するくらいです。
他のどの登場人物より後の時代まで活躍していく、
歴戦の武将になっていきます。
[孫権]亡き、後の『孫呉』でも、武勇が知られ、
騒乱を鎮圧したりなど、70代になるまで活躍するのです。
要所要所で彼の名前が上がっているのは、
この若い時代から活躍してたゆえでしょう。
すでに[司馬師][司馬昭]らが『魏』で活躍している頃、
『東興の戦い』で『魏軍』を散々に打ち破った武勇が知られます。
そして、彼の享年の271年は、『蜀』が滅亡し、『晋』が成立している時代です。
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