三国志 Three Kingdoms 第56話 「再び周瑜を怒らせる」

三国志 Three Kingdoms 第55話 「計りて虎穴を脱する」





「[劉備]に挙兵させ、《西蜀》を取らせる。
例の約束では、[劉備]が立脚の地を得たら《荊州》は返すことに。
約束通り、《西蜀》を取るよう[劉備]に迫って欲しい。
でないと永遠に埒が明かぬ。」

―[周瑜 公瑾]



第四部「荊州争奪」第五十六集

時代背景:210年(建安14年)


[周瑜]らの策から脱出しようと、[劉備]は配下の[趙雲]らと、

《孫呉》の地から脱出することを計ります。

しかしそこに追っ手がやって来て、彼等を追い詰める事になるのでした。


[趙雲]は、[諸葛亮]の授けた最後の秘策の封書を開き、

その命令通りに動きます。

[劉備]宛であったその命令書だったのか、



馬車にいた[孫小妹](孫尚香)は、追っ手の[徐盛]と[丁奉]に、

自分達の道を開けよと命じ、彼等を言い負かしてしまいます。

こうして脱出を果たした[劉備]。


一方《荊州》では、[劉備]を救出しにいかない[諸葛亮]に、

[関羽]と[張飛]が業を煮やし、《荊州》の軍とも一色触発状態になっていました。


退路を逃れる[劉備]には[周瑜]が追いつき、

いよいよ彼を追い詰めるのですが、

[諸葛亮]は、《荊州》の軍を[黄忠]と[魏延]に動かさせており、

これが『周瑜軍』を追い払い、[劉備]を完全に逃すのです。

《南郡》での傷も悪化した[周瑜]は罵られながら、これを逃してしまいます。

しかし彼の怒りは臨界にありました。


一方、今にも『孫呉』に攻め込もうとしていた、

[関羽]と[張飛]の前に、ようやく[劉備]が帰還してきます。



歓喜する義兄弟達でしたが、

[諸葛亮]は彼らの中に入って行けず、必要とされていないのではないか、

と思い込んでしまい、[劉備]の元を去ろうとしてしまいます。


しかし[諸葛亮]は命の恩人であり、

船で出ようとしていた所を、何としても連れ戻してくる[劉備]ら義兄弟。

とりあえず、この騒乱は一幕をつけることになりました。



この後、[諸葛亮]は、[関羽]と[張飛]の中でも、

[関羽]が、人を馬鹿にする態度を持っており、

一領地を任されたら危険だと、[劉備]に示唆するのです。


一方、『孫呉』では[周瑜]が、[諸葛亮]に馬鹿にされ、

挙句の果てに[劉備]に逃げられたことに怒り心頭しており、

[劉備]が戻った今、《荊州》を攻めるのは大戦となってしまい、

愚の骨頂であると苦悩を漏らすのです。


主君の[孫権]は、[劉備]を攻めるのは時期尚早と言いつつも、

[劉備]を、《許昌》つまり朝廷に上奏して、

“荊州牧”にしてしまうという事を[周瑜]と計ります。

しばらくして、[劉備]の元へとその任が与えられるのでした。

“孫劉同盟”があれば、[曹操]も簡単には攻められない、

ですが、《荊州》の二郡に[周瑜]達が入る事になっており、

最終的には《荊州》の奪還に繋がるという策なのでした。


[魯粛]と話す[周瑜]は、

同盟は足がかりに過ぎず、いずれ《荊州》は取るつもりであり、

もっとも重要なのはいつ取るか、

その策のため、[劉備]に《西蜀》を取らせ、

約束通り《荊州》を返させようとします。


しかし《西蜀》を取るのは[劉備]らにとって大仕事であり、

[周瑜]は軍を貸し与える、その際、その軍を持って《荊州》を攻撃し、

[劉備]らを倒そうとするのです。

ですがこれには、穏健派の[魯粛]は、同意するものの、

賛同できぬ顔をしてしまうのでした―。




このエピソードの注目点
「《荊州》争奪への発展」



[劉備]を取り逃したこと、《荊州》の軍が彼の手によって、

大幅に増強されている事は、[周瑜]や[孫権]にとっては、

この上なく危機感を感じる状況となりました。

もはや、同盟や和議などで済むようなことではない。


一時は[劉備]を“荊州牧”に任じるなど、彼等を敵に回すことを、

諦めたかのように思えた[孫権]陣営でしたが、

[周瑜]は、《西蜀》攻略のための援軍を、

《荊州》に攻めこませるという策を整えていたのでした―。

[魯粛]曰く、これは非常に危険な行為でもあるのです。


注目の人物



[丁奉 承淵]
?年〜271年

歴戦の『孫呉』の武将。とはいってもこの時代にはまだ若く、

[徐盛]と共に、[周瑜]の追手として登場するくらいです。

他のどの登場人物より後の時代まで活躍していく、

歴戦の武将になっていきます。

[孫権]亡き、後の『孫呉』でも、武勇が知られ、

騒乱を鎮圧したりなど、70代になるまで活躍するのです。


要所要所で彼の名前が上がっているのは、

この若い時代から活躍してたゆえでしょう。

すでに[司馬師][司馬昭]らが『魏』で活躍している頃、

『東興の戦い』で『魏軍』を散々に打ち破った武勇が知られます。


そして、彼の享年の271年は、『蜀』が滅亡し、『晋』が成立している時代です。


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三国志 Three Kingdoms 第57話 「周瑜の死」
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