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第四部「荊州争奪」第五十七集
時代背景:210年(建安14年)
あくまで[劉備]、そして[諸葛亮]の才能を見過ごしてはおけない[周瑜]。
彼は《南郡》の太守になることによって、
目をみはらせる事になるのでした。
[魯粛]は[諸葛亮]と話し合い、[劉備]が《荊州》牧とされた以上、
《南郡》を[周瑜]に任せるように言います。
そして本題は、[劉備]に《荊州》を貸したのは、
あくまでも一時的で、早く《巴蜀》を取るように迫るのでした。
しかし《巴蜀》を治める[劉璋]は[劉備]の遠戚であり、
同族同士の闘いになり、[劉備]は苦しんでいると、
[諸葛亮]は言うのでした。
そして少しの猶予が欲しいと[孫権]に言って欲しいと。
[周瑜]の事を知る[魯粛]は、彼に前から言われていたとおり、
兵糧と軍で、自分達の軍が《巴蜀》を取るというのです。
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ですが[諸葛亮]は[周瑜]の考えを見抜いており、
その軍をもってして《荊州》を攻める事を予測していたのでした。
《荊州》返還に応じない[劉備][諸葛亮]らに
[周瑜]は、いてもたってもいられず。
[魯粛]には、《荊州》攻めを将軍達が動かしており、これに[孫権]が、
同意している事を明かします。
半年で《巴蜀》を落とせる、という大軍の計画を知らされた[諸葛亮]ですが、
実はその軍は《荊州》を攻めてくることを知ります。
このままでは[周瑜]の軍の大軍を引き入れてしまう、
と危機的な状況になっていましたが、
実は[諸葛亮]は戦える軍が8万おり、迎え撃つことは可能と[劉備]に言うのでした。
しかしもし本当に戦うことになってしまえば、
孫劉同盟の崩壊なのは明らかなのでした。
一方、[周瑜]は《南郡》の戦いでの傷が悪化しており、
一人で立つこともおぼつかない状態にまでなっているのでした。
それでも《荊州》を取り戻すため動く[周瑜]の軍。
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《荊州・襄陽》にまでやってきた[周瑜]は、
そこに攻撃を仕掛ける事をしますが、すでに攻めてくる事を予期していた、
迎撃部隊に手痛い攻撃を受けてしまいます。
そして敗走することになった[周瑜]の軍は、
大打撃を受け、『劉備軍』の包囲を受けてしまうのでした。
更に[周瑜]の様態は悪化し、
[諸葛亮]は、これ以上《荊州》を攻撃しないのならば、
こちらも攻撃をせずに軍を《江東》へと返させるというのです。
しかし[周瑜]が最後に見た光景は、
二度と自分が戻ってくることはできないであろう、
《荊州》の光景なのでした。
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戻ってきた[周瑜]はもはや後先が短い状態になり、
彼に会うために[孫権]もやってきます。
[周瑜]は、自分は血気盛んな将軍達を抑えるためにも、
横暴に振る舞い、[孫権]の名誉も傷つけるしかなかった、
しかし[孫権]は寛容であり、許してくれると思っていたと明かすのです。
そうであっても[劉備]と[諸葛亮]は警戒すべき、
強敵であると忠告もするのでした。
[周瑜]は自分の後継として、大都督に[魯粛]を指名し、
最期を迎えるのでした―。
こうしてまた一人、『三国志』の英雄がこの世を去っていったのです。
[周瑜]の死を[魯粛]に伝える[孫権]。
そして大都督の後任に彼が指名された事を言うのです。
このエピソードの注目点
「《荊州》を巡った[周瑜]の最期」
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第四部が『荊州争奪』と名付けられているだけあり、
《荊州》を巡った争いが描かれる事になりましたが、
それは[周瑜]の最期で一幕を閉じる事になってしまいます。
志半ばであり、わずか36歳で死去してしまった[周瑜]。
《荊州》に執着しなければ、
若死にしなかっただろうというのは、あくまで[劉備][諸葛亮]派の目線で、
『孫呉』として《荊州》は絶対に手放せない地、
であったというのも忘れてはなりません。
そして、これで《荊州》の争乱が終わったのではなく、
むしろこれからがもっと重要な展開になっていくのも、
見逃せない点です。
そして物語は第五部へ。
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