三国志 Three Kingdoms 第57話 「周瑜の死」

三国志 Three Kingdoms 第56話 「再び周瑜を怒らせる」





「惜しい、残念です。
天は[周瑜]を生みながら、なぜ[諸葛亮]も生んだのか!」

―[周瑜 公瑾]


第四部「荊州争奪」第五十七集

時代背景:210年(建安14年)


あくまで[劉備]、そして[諸葛亮]の才能を見過ごしてはおけない[周瑜]。

彼は《南郡》の太守になることによって、

目をみはらせる事になるのでした。


[魯粛]は[諸葛亮]と話し合い、[劉備]が《荊州》牧とされた以上、

《南郡》を[周瑜]に任せるように言います。

そして本題は、[劉備]に《荊州》を貸したのは、

あくまでも一時的で、早く《巴蜀》を取るように迫るのでした。


しかし《巴蜀》を治める[劉璋]は[劉備]の遠戚であり、

同族同士の闘いになり、[劉備]は苦しんでいると、

[諸葛亮]は言うのでした。

そして少しの猶予が欲しいと[孫権]に言って欲しいと。

[周瑜]の事を知る[魯粛]は、彼に前から言われていたとおり、

兵糧と軍で、自分達の軍が《巴蜀》を取るというのです。




ですが[諸葛亮]は[周瑜]の考えを見抜いており、

その軍をもってして《荊州》を攻める事を予測していたのでした。


《荊州》返還に応じない[劉備][諸葛亮]らに

[周瑜]は、いてもたってもいられず。

[魯粛]には、《荊州》攻めを将軍達が動かしており、これに[孫権]が、

同意している事を明かします。


半年で《巴蜀》を落とせる、という大軍の計画を知らされた[諸葛亮]ですが、

実はその軍は《荊州》を攻めてくることを知ります。

このままでは[周瑜]の軍の大軍を引き入れてしまう、

と危機的な状況になっていましたが、

実は[諸葛亮]は戦える軍が8万おり、迎え撃つことは可能と[劉備]に言うのでした。

しかしもし本当に戦うことになってしまえば、

孫劉同盟の崩壊なのは明らかなのでした。


一方、[周瑜]は《南郡》の戦いでの傷が悪化しており、

一人で立つこともおぼつかない状態にまでなっているのでした。

それでも《荊州》を取り戻すため動く[周瑜]の軍。




《荊州・襄陽》にまでやってきた[周瑜]は、

そこに攻撃を仕掛ける事をしますが、すでに攻めてくる事を予期していた、

迎撃部隊に手痛い攻撃を受けてしまいます。


そして敗走することになった[周瑜]の軍は、

大打撃を受け、『劉備軍』の包囲を受けてしまうのでした。


更に[周瑜]の様態は悪化し、

[諸葛亮]は、これ以上《荊州》を攻撃しないのならば、

こちらも攻撃をせずに軍を《江東》へと返させるというのです。

しかし[周瑜]が最後に見た光景は、

二度と自分が戻ってくることはできないであろう、

《荊州》の光景なのでした。



戻ってきた[周瑜]はもはや後先が短い状態になり、

彼に会うために[孫権]もやってきます。


[周瑜]は、自分は血気盛んな将軍達を抑えるためにも、

横暴に振る舞い、[孫権]の名誉も傷つけるしかなかった、

しかし[孫権]は寛容であり、許してくれると思っていたと明かすのです。


そうであっても[劉備]と[諸葛亮]は警戒すべき、

強敵であると忠告もするのでした。

[周瑜]は自分の後継として、大都督に[魯粛]を指名し、

最期を迎えるのでした―。


こうしてまた一人、『三国志』の英雄がこの世を去っていったのです。

[周瑜]の死を[魯粛]に伝える[孫権]。

そして大都督の後任に彼が指名された事を言うのです。




このエピソードの注目点
「《荊州》を巡った[周瑜]の最期」



第四部が『荊州争奪』と名付けられているだけあり、

《荊州》を巡った争いが描かれる事になりましたが、

それは[周瑜]の最期で一幕を閉じる事になってしまいます。


志半ばであり、わずか36歳で死去してしまった[周瑜]。

《荊州》に執着しなければ、

若死にしなかっただろうというのは、あくまで[劉備][諸葛亮]派の目線で、

『孫呉』として《荊州》は絶対に手放せない地、

であったというのも忘れてはなりません。


そして、これで《荊州》の争乱が終わったのではなく、

むしろこれからがもっと重要な展開になっていくのも、

見逃せない点です。


そして物語は第五部へ。


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