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第三部「赤壁大戦」第四十一集
時代背景:西暦208年(建安13年)『赤壁の戦い』
十万本の矢を手に入れた[諸葛亮]は、それを[周瑜]に献上します。
そして、処断された[蔡瑁]の息子たちが、[周瑜]の元に投降してきますが、
[曹操]の息子である[曹丕]が仕組んだ策だったのです。
しかしながら、それさえも利用しようとする[諸葛亮]。
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軍議の場で、どういうわけか、突然、持久戦に対して激高しだすのは、
老齢なる将軍の[黄蓋]。
処断さえも考えるものの、棒打ちの計に処するというのです。
罵詈を立てながら棒打ちの目に遭ってしまう[黄蓋]。
ですがこれは、すでに[周瑜]と[黄蓋]の間で交わされた策であり、
そして[曹操]の元に、[黄蓋]からの書状がやってきます。
それが“苦肉の策”である事を見抜こうと思ったものの、
[周瑜]は部下にも疑われるほどの処断をしていたため、
[曹操]はやはり、これは[周瑜]が自分に奢っているものと判断。
ちょうど、水軍の訓練が済んでいたため、
いよいよ《赤壁》への出陣に臨むのです。
一方、[周瑜]側は火で攻めることは決まっていたものの、
そんな中突然、病で倒れてしまう[周瑜]。
彼があまりに心配しすぎているために、倒れたのではないかと考えた[魯粛]は、
[諸葛亮]にそれを相談しに行くのでした。
[諸葛亮]は、[周瑜]に病もあるが、それだけではなく、
火計が風向きのせいで失敗するのではないかと、
これを心配して無理がたたっていたせいだといい、
すべてを整えていたはずが、風向きを見逃していたと、
[周瑜]は言います。
[諸葛亮]は『曹操軍』を滅ぼすための、“東南の風”の祈祷を提案。
彼ならば、“東南の風”を起こせるというのでした。
そして[諸葛亮]の伝説的な祈祷が始まります。
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しかし[周瑜]にとっては、そんなことまでできてしまう[諸葛亮]は、
《江東》の敵になるであろうと、[呂蒙]に始末を命じます。
すべての手はずは整い、いよいよ『赤壁の戦い』が始まります。
そして三日が経ち、“東南の風”が吹き、
[諸葛亮]は、自分に危機が迫っている事を見抜いて、祭壇から逃げ、
[呂蒙]らの追撃から逃げるのです。
この時、[周瑜]の妻の[小喬]が手助けをしていたのでした。
まんまと追撃を逃れた[諸葛亮]は、そのまま逃げていき、
[周瑜]らに後事を託すのです。
そして[周瑜]は、[小喬]が[諸葛亮]を逃したものと見抜き、
彼女に剣を向け、彼女を追放してしまうのでした。
次回、いよいよ大戦が始まります。
このエピソードの注目点
「自らの身を削ってまでの[黄蓋]の策」
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今のままでは、炎を持ってしても、『曹操軍』の大軍を倒す事は不可能。
それには、火計を自在に操り、完膚なきまでに炎の餌食にしなければならない。
そのために、[周瑜]が行った計略が、“苦肉の策”であり、
[諸葛亮]が行った計略が“東南の風”でした。
敵を欺くためには、降伏のふりをして、油断を誘い、
そこに火計を仕掛けるということなのですが、それをより確実なものとするため、
齢六十代にもなるという[黄蓋]が、自分が[周瑜]を激怒させたとして、
棒で何度も叩かれるという事を買って出るほど。
そこまでまさに骨と肉を削ったほどの策略は成功するのか?
全ては次回に繋がります。
注目の人物
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[黄蓋 公覆]
吹替:小山武宏
西暦?年〜215年(建安19年)
『孫呉』については、[孫堅]の代から仕えている、[黄蓋][程普]らと並ぶ、
古参の武将の一人。
その中でも、最も有名であるのは、やはりこの話であった、
“苦肉の策”で『赤壁の戦い』で最も激しい火攻めを成功させ、
それで華々しく死んだ、のではなく、命からがら生き延びている。
という辺りなのでしょう。
孫家三代に渡って、支えてきたというだけあり、
その『孫呉』への忠誠心は人一倍強く、故に[周瑜]などの若造には従わない、
と周りに思われていたところを、あえて利用したのが、“苦肉の策”でした。
ただ、流石に高齢であり、『赤壁の戦い』で全精力を使ってしまったのか、
その後の活躍はあまり知られておらず、高齢のため数年後に死去してしまいました。
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