三国志 Three Kingdoms 第41話 「苦肉の策」


三国志 Three Kingdoms 第40話 「草船で矢を借りる」



「酒に対えば、当に歌うべし。人生いくばくぞ。
たとえば朝露のごとし。去りゆきし日は、はなはだ多し。
概きては、まさに以っていたむべし。憂思忘れ難し。
何を以ってか、憂いを解かん。ただ、社康あるのみ。

青々たる、子が衿。悠々たる、我が心。たた君がための故に。
沈吟して、今に至る。ようようとして、鹿は鳴き、
野のよもぎを食らう。我に嘉賓あらば、しつを鼓し、しょうを吹かん。
明々たること、月の如きも、いずれの時にかひろうべき。」

―[曹操 孟徳]



第三部「赤壁大戦」第四十一集

時代背景:西暦208年(建安13年)『赤壁の戦い』


十万本の矢を手に入れた[諸葛亮]は、それを[周瑜]に献上します。

そして、処断された[蔡瑁]の息子たちが、[周瑜]の元に投降してきますが、

[曹操]の息子である[曹丕]が仕組んだ策だったのです。

しかしながら、それさえも利用しようとする[諸葛亮]。



軍議の場で、どういうわけか、突然、持久戦に対して激高しだすのは、

老齢なる将軍の[黄蓋]。

処断さえも考えるものの、棒打ちの計に処するというのです。

罵詈を立てながら棒打ちの目に遭ってしまう[黄蓋]。


ですがこれは、すでに[周瑜]と[黄蓋]の間で交わされた策であり、

そして[曹操]の元に、[黄蓋]からの書状がやってきます。

それが“苦肉の策”である事を見抜こうと思ったものの、

[周瑜]は部下にも疑われるほどの処断をしていたため、

[曹操]はやはり、これは[周瑜]が自分に奢っているものと判断。

ちょうど、水軍の訓練が済んでいたため、

いよいよ《赤壁》への出陣に臨むのです。


一方、[周瑜]側は火で攻めることは決まっていたものの、

そんな中突然、病で倒れてしまう[周瑜]。

彼があまりに心配しすぎているために、倒れたのではないかと考えた[魯粛]は、

[諸葛亮]にそれを相談しに行くのでした。


[諸葛亮]は、[周瑜]に病もあるが、それだけではなく、

火計が風向きのせいで失敗するのではないかと、

これを心配して無理がたたっていたせいだといい、

すべてを整えていたはずが、風向きを見逃していたと、

[周瑜]は言います。


[諸葛亮]は『曹操軍』を滅ぼすための、“東南の風”の祈祷を提案。

彼ならば、“東南の風”を起こせるというのでした。

そして[諸葛亮]の伝説的な祈祷が始まります。



しかし[周瑜]にとっては、そんなことまでできてしまう[諸葛亮]は、

《江東》の敵になるであろうと、[呂蒙]に始末を命じます。


すべての手はずは整い、いよいよ『赤壁の戦い』が始まります。

そして三日が経ち、“東南の風”が吹き、

[諸葛亮]は、自分に危機が迫っている事を見抜いて、祭壇から逃げ、

[呂蒙]らの追撃から逃げるのです。

この時、[周瑜]の妻の[小喬]が手助けをしていたのでした。


まんまと追撃を逃れた[諸葛亮]は、そのまま逃げていき、

[周瑜]らに後事を託すのです。


そして[周瑜]は、[小喬]が[諸葛亮]を逃したものと見抜き、

彼女に剣を向け、彼女を追放してしまうのでした。


次回、いよいよ大戦が始まります。




このエピソードの注目点
「自らの身を削ってまでの[黄蓋]の策」



今のままでは、炎を持ってしても、『曹操軍』の大軍を倒す事は不可能。

それには、火計を自在に操り、完膚なきまでに炎の餌食にしなければならない。

そのために、[周瑜]が行った計略が、“苦肉の策”であり、

[諸葛亮]が行った計略が“東南の風”でした。

敵を欺くためには、降伏のふりをして、油断を誘い、

そこに火計を仕掛けるということなのですが、それをより確実なものとするため、

齢六十代にもなるという[黄蓋]が、自分が[周瑜]を激怒させたとして、

棒で何度も叩かれるという事を買って出るほど。

そこまでまさに骨と肉を削ったほどの策略は成功するのか?

全ては次回に繋がります。


注目の人物



[黄蓋 公覆]
吹替:小山武宏

西暦?年〜215年(建安19年)


『孫呉』については、[孫堅]の代から仕えている、[黄蓋][程普]らと並ぶ、

古参の武将の一人。

その中でも、最も有名であるのは、やはりこの話であった、

“苦肉の策”で『赤壁の戦い』で最も激しい火攻めを成功させ、

それで華々しく死んだ、のではなく、命からがら生き延びている。

という辺りなのでしょう。

孫家三代に渡って、支えてきたというだけあり、

その『孫呉』への忠誠心は人一倍強く、故に[周瑜]などの若造には従わない、

と周りに思われていたところを、あえて利用したのが、“苦肉の策”でした。


ただ、流石に高齢であり、『赤壁の戦い』で全精力を使ってしまったのか、

その後の活躍はあまり知られておらず、高齢のため数年後に死去してしまいました。


↓次のエピソードへ

三国志 Three Kingdoms 第42話 「赤壁の戦い」
三国志 Three Kingdoms 第42話 「赤壁の戦い」

トップへ
トップへ
戻る
戻る