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第三部「赤壁大戦」第三十八集
時代背景:208年(建安13年)
《江夏》まで逃れてきた[劉備]は、[孫権]と盟を結ぶために、
[諸葛亮]を《江東》へと遣わすのでした。
しかし《江東》の者達は『曹操軍』と戦うことを恐れ、
[諸葛亮]を敵対視さえし出すのです。
とはいえ彼によれば、[曹操]を倒すための策があるのだと言うのでした。
それは『曹操軍』は北方の出がほとんどであり、
南の土地に慣れておらず、また水軍も《江東》には敵わず、
元々が降伏兵であるため、倒す策は十分にあるというのです。
しかしながら、『孫権軍』では、主戦派と降伏派で対立となりました。
そんな中、大都督である[周瑜]の元に、
穏健派である[張紹]らが集まり、彼を説得しようとします。
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一方、武人である[黄蓋][韓当]らは徹底抗戦を主張。
《江東》に誇りがある彼らは、戦いを挑もうと考えており、
[周瑜]はどちらでもあるというようにはぐらかします。
これも交戦派と和睦派で内乱が起こらないようにするため。
[諸葛瑾]らもこれを危惧しており、
とにかく「明日主君にお会いして決める」で帰す[周瑜]。
実際、彼も戦うか否かで迷っているのでした。
そして最後にやってきたのが、[魯粛]と[諸葛亮]。
[周瑜]も彼らの前では本心である、降伏を主張します。
『漢王朝』の名の前に屈して、後の世の笑いものにならないためにと、
そういう主張なのでした。
そんな中、[諸葛亮]は、[周瑜]を揺さぶるために、
[曹操]が、二喬姉妹の[大喬][小喬]を狙っており、彼女らを差し出せば、
《江東》に戦はやってこないと言うのです。
しかしながら妹の[小喬]は、[周瑜]の妻であり、
この発言は[周瑜]を怒らせる事になるのでした。
[曹操]が二喬姉妹を[周瑜]の妻と知ったら、一層狙ってくると言い、
つまり人妻を好んでいる事に、ますます[周瑜]は怒る事になるのでした。
[曹操]は生かしてはおけないと、そう言い放つのです。
ただ[魯粛]は、[諸葛亮]の揺さぶりを分かっていたようですが。
そして軍議に出席する事になった[周瑜]ら。
[周瑜]は一点して交戦を主張するようになり、様々な『曹操軍』の失態を述べ上げ、
[孫権]を推そうとします。
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家臣達の前で[孫権]は、刀で机を斬り、
降伏を口にしたものは、こうすると言い放つのでした。
そして戦いはいよいよ《赤壁》の地へと移っていきます。
[周瑜]は[諸葛亮]の事を警戒し、危うい関係のままに―。
このエピソードの注目点
「[周瑜]が抗戦を臨むまで」
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武人であり智者でもある[周瑜]も、
《江東》に戦を持ち込むわけにはいかないと、『曹操軍』の前に降伏を考えます。
もっとも、[諸葛亮]なしで《江東》にやってきても、
[劉備]らが協力を得られることはなかったでしょう。
しかしそこは[諸葛亮]であり、出した作戦は、
[曹操]が《江東》の“二喬”を狙っているというもの。
そのうちの妹の[小喬]は[周瑜]の愛妻であり、
この話を持ちだされた途端に彼は、[曹操]に対して激怒するというもの。
これは創作物での話ではありますが、
[周瑜]に重い腰を上げさせるきっかけになったようで。
注目の人物
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[周瑜 公瑾]
吹替:小山力也
西暦175年(憙平4年)〜210年(建安15年)
『孫呉』の大都督として、その知略と武勇を知らしめた人物の一人。
[孫策]と共に義兄弟の契りを交わしており、彼とともに《江東》を制覇。
[孫策]の死後も、弟の[孫権]を支え続け、
[諸葛亮]と連合して『赤壁の戦い』に勝利した事が有名です。
ただ[諸葛亮]の有能ぶりに警戒を示した[周瑜]は彼を敵対視し、
いずれ『孫呉』の強大な敵になるであろうと、葬り去ろうと考えていた、
と言われています。
『三国志演義』では、[諸葛亮]の敵とみなされることもあってか、
損な役回りをさせられており、
特に《荊州》を巡っての争いでの扱いは不遇の一言。
とはいえ、こちらのドラマでは、知略も優れていますが、
武人としての[周瑜]としての側面が強く描かれています。
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